聖日礼拝メモ 8月30日

聖書 マタイの福音書5章17−20節

 マタイの福音書の5章は、山上の説教の中でも、有名な箇所です。その中には、律法学者やパリサイ人の考えを修正するような、イエス様の言葉が記されています。そのような語りかけの前に、今日の箇所があります。律法とイエス様との関係、そしてクリスチャンの持つ義についての言葉が記されています。

 まず、17節ですが、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」とあります。ここで大切なことは、「来た」という言葉です。それは、ナザレから来たとかカペナウムから来たという意味ではありません。天から、父なる神のもとから来た、という意味です。イエス様がご自分について語る、この言葉は、私たちがイエス様をどのような方と理解するかに光を与えます。イエス様が天地を造られた神のみもとから来られた、神の御子であることを、私たちは信じます。

 クリスマスで地上の生活を始められたイエス様は、神の御子なのです。ですから、神がくださった律法についてその本質を語ることができるのです。イエス様は一つの使命を受けて、人間となられた方です。真理を教え、いのちをもたらし、救いを与えるためです。十字架はそのために通らなければならないものでした。ですから、「来た」と言われた意味をしっかり掴むことが大切です。

 次に、律法と預言者を成就するためとは、どういう意味でしょうか。

 律法と預言者という表現は、旧約聖書を表しています。当時、シナゴグでの礼拝では、律法と預言者の各部から一つづつ読まれていたとも言われています。イエス様がそれを成就するとは、実現するという意味です。「一点一画」も消え去ることがないと、イエス様は言われました。それほど、イエス様は、旧約聖書を信頼し、大事にしておられました。それを成就するとは、律法の中の全てを実現するということです。

 それを実現したことは、イエス様が罪のない方であることに現れています。ヤコブは、「律法全体を守っても、一つの点で誤ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われます」とあります。つまり、律法を実現するとは、罪を犯さないことに結びついているのです。ヘブル人への手紙4章15節に、「罪は犯しませんでした」とあり、ペテロ第一の2章22節に、「キリストは罪を犯したことがなく」とあり、ヨハネ第一の3章5節に、「(キリスト)のうちに罪はありません」とあります。これは、イエス様が成就したことを示していることです。

 さらに、律法には、儀式律法、司法律法、道徳律法があります。イエス様が儀式律法を成就したことはヘブル人への手紙に解説されています。イエス様が十字架で死なれたことを通して、儀式律法が成就したのです。司法律法は、罪を犯した者の処罰についての律法ですが、イエス様は罪を犯さなかったので、これもクリアしました。

 道徳律法では、例えば、レビ記19章14節に「あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前に、つまづく物を置いてはならない」とありますが、イエス様はこれを守られただけでなく、耳の聞こえない人や目の見えない人を癒されました。それによって、愛を表す方法を教えておられます。イエス様は、「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる灯芯を消すこともない」方なのです。

 このように、イエス様は旧約聖書を実現しました。預言の中には、これから成就するものもあると思いますが、律法を実現してくださったのです。それほど、大切な旧約聖書を、もういらない、というような人は、イエス様の心が分かっていないのです。ぜひ、旧約聖書を読んでください。(ちなみに、イエス様が安息日に人々を癒したことなどから、イエス様が旧約聖書を軽視している、ないがしろにしていると批判されていたことを考えると、この言葉は、それを否定する言葉でもあったのです。)

 さて、20節に進みましょう。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」天の御国に入れなくなったら大変です。それでは、律法学者やパリサイ人の義とは、どういうものでしょうか。彼らは、真剣に旧約聖書を実現しようとした人たちです。それなのに、イエス様は彼らの正しさでは、天の御国に入れないと言われます。

 イエス様の当時の律法学者やパリサイ人は、熱心のあまり、旧約聖書にないことまで、いろいろと規程を定めて、自分も守り、人にも守らせようとしました。そこには、旧約聖書を正しく理解していないという問題がありました。ルカの福音書18章12節に、「私は週に二度断食し」というパリサイ人の言葉が引用されています。厳密に断食をするように律法で定めていたのは、一回です。安息日の守り方にしても、いろいろな規定を作り、守らない人を責めたり、軽視しました。でも、イエス様は、善を行う日として安息日を守りました。

 目の見えない人の前につまずく物を置いてはならないという戒めに対して、「愛を表す方法を教えて」くださったと解説しました。愛の実行の仕方を教えてくださるのが旧約聖書の正しい読み方でしょう。イエス様は、律法の中で一番大切な戒めとして、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と説明しました。また、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われ、「同じように重要です」と言われました。つまり、旧約聖書の中心は、愛することにあると教えられました。それを生きたのが、イエス様でした。しかし、さまざまな規定を作って守ることに熱心なために、この根本の愛を見逃してしまったのが、律法学者やパリサイ人だったのです。律法の上辺を守っても、その心を理解していなかったのです。

 私たちは、どうでしょうか。あれをしたから、これをしたから、天国にいかれると考えてしまうことはないでしょうか。そうではなく、愛に生きることができなければ、どんなことをしても、御国に入れないのです。愛に生きるとは、主との交わりに生きることです。嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、楽しかったことを、主にお話しし、主がともにいてくださることに感謝しつつ暮らすことでしょう。信仰によって罪を赦されたことから、主に感謝して、主を愛し、主の栄光のために生きることでしょう。あなたはどうですか。

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