聖日礼拝メモ 8月9日
聖書 マタイの福音書5章1−12節
さて、8月6日と9日は、広島と長崎に原爆が落とされた日です。私はその日、伊豆の蓮台寺にいました。何も分からない5歳の子どもでした。新聞の声欄を見ますと、原爆のみじめさが記されています。悲しい記録、悲しい記憶です。戦争のない世界は、まだやって来ません。イエス様の再臨を待ち望みます。
今日の聖書の箇所は、マタイの福音書5章、八つの幸いの中の7番目、「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」になります。
イエス様が平和について語るとき、それは、神様との間の平和のことです。戦争がない平和ではなく、神の祝福の平和です。ギリシア語ではアイレーネー、ヘブル語ではシャロームです。平和は、神ご自身から発するもの、神様が人に与えてくださるものです。
イエス様の時代は、ローマの平和が成り立った時でした。パックス・ロマーナと言われました。それで、ローマ皇帝は、救世主であり、神の子と呼ばれました。でも、村平和は、長くは続きませんでした。
それに比べて、神のくださる平和は、ずっと続くものです。「罪の中に落ちて死んでゆく者に、手を伸ばし、今の今まで神の『敵』であった者を、そのまま愛する『神の子』に変えてしまわれる」恵みです。そう、「神が罪人を自分に引き寄せて、身分もそれまでの関係もことごとく変えてしまわれる」平和です。神の平和を注がれて、罪から解放され、神と和解することが、平和の中身です。
ですから、平和を作る人とは、神様から与えられた平和を持って生きることができる人です。まだ平和を持っていない周りの人に、神との和解をもたらす人が、幸いな人なのです。言い換えますと、救いを伝える人です。
イエス様は、その人たちを神の子どもと呼ばれると言われました。神の性質をいただいている、そういう意味です。これは、ペテロも語っていることです(Ⅱペテロ1:4)。しかし、私たちは、その名に相応しくない者です。それなのに、神様は御子を遣わしてくださり、十字架の苦しみと死を通して、罪を取り除き、ご自身と和解させ、天的いのちをくださったのです。驚くべきことです。イエス様はまさに平和を作る方です。
このような突拍子もない恵みにより、神様と和解し、神との平和を戴いた者は、周りのまだ平和を持っていない人たちに神との平和を持ってほしいと願うのです。これは宣教の推進力になります。そして、それは、祈りへと私たちを導きます。
ウエスレーは、祈りなしには神は何もなさらない、とその書「キリスト者の完全」で語っています。神様が願って、私たちとの平和を成し遂げるために、御子を遣わされ、十字架により和解を成し遂げられたことを知って、私たちもその御心にしたがって生きていきたいのです。そのために、キリストのからだである教会を建てられました。教会は、人々の心の奥にある、平和を求める思いを大きくしてくださるように、祈る群れです。
ところが、人々は、お金や健康のこと、そして楽しいことを求めて、神との平和を求めていません。ですから、私たちは祈らなければなりません。ある人は、祈りは悪魔との綱引きだ、と言いました。人々の心が目覚めて、神様との交わりを求め、イエス様を求めるように、祈らなければならないのです。
イエス様は、「平和の君」と呼ばれます。パウロは、こう言っています。『私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』平和の源は神様にあります。私たちは平安をいただいただけで満足してはなりません。人々の心に、飢え渇きが増すように祈っていきましょう。愛の祈りが必要です。一人でも多くの人が救われるために、多くの人が祈ることを神様は願っておられます。
神様は、ご自身の権利と威厳に固執しませんでした。そして、御子イエス様はベツレヘムに誕生したのです。もし、神様がご自身の権利と威厳に固執していたら、私たちは全滅していたでしょう。神様の愛に応えて、祈る者としていただきましょう。それにより、私たちも神に似る者となれるのです。私たちも、自分の権利を捨て、イエス様の愛に応えて生きましょう。