聖日礼拝メモ 8月2日

聖書 マタイの福音書5章1−12節

 先週、熊本で大きな地震があり、爆発事故もありました。暑さも続いています。そんな私たちに、「神を見る」ことが示されています。

 日本では、「よりしろ」という言葉があります。「神霊が招き寄せられて乗り移るもの。……これを神霊の代わりとして祭る」と広辞苑は説明しています。霊的なものが目に見えないことを、日本人はわかっているのです。

 当然、神は見えません。出エジプト記33章18節には、モーセの願いが書かれています。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」と。ある人は、「これは、神をあるがままに見たいという祈りである」と言います。しかし、神は言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と。しかし、その後で、神は「わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない」と言われます(20節)。この言葉に、ある人は「神の過去の行動によってのみ、神を知ることができる」という解説を与えます。

 イエス様が「神を見る」と言われたことは、ウエスレーの言葉ですと、「信仰によって、神を見る」ことだと解説されています。そして、さらに、こう言います。「私たちを囲むあらゆる物事の中に神を見、神が創造された、すべてのものの中に神を見る」と。

 心のきよい人は、自然界に神の知恵と力を見ることができます。例えば、太陽を見てください。詩篇19篇に、「その熱から、隠れ得るものは何もない」とあります。人間生活に不可欠な太陽は、神が造られたものです。神の愛によって、私たちは太陽の恵みにあずかっているのです。

 ウエスレーはこうも言っています。「あらゆる神の摂理の中に神を見る」と。摂理はことが起こった後に見つけることが多いものです。この点、神の後ろを見ることにつながります。ウエスレーの言葉を引用します。「彼らは、神の御手が自分たちを益するために、常に彼らの上に置かれているのを見る。御手がすべての物をよく計って彼らに与え、彼らの頭髪を数え、彼らと彼らのすべての所有のまわりに垣をめぐらし、彼らの生涯のすべての環境を、ご自分の知恵とあわれみの深さにしたがって、配剤しておられるのを見る。」このことに、神が私たちのまわりに置いてくださった人の言葉の中に、神を見ることを加えることができるでしょう。

 ウエスレーは、そのほか、儀式の中に神を見る、と言っています。礼拝、祈り、聖餐式の中に、神を見ると言います。

 さて、このように神を見ることのできる人は、「心のきよい人」です。心がきよいとは、混じり気がない、二心でないことです。一心に神を愛し、主を慕い、主を知りたい人です。しかし、生まれつき心がきよい人はいません。イエス様の恵みよってきよくしていただいた人です。そうでないと、動機が純粋ではないからです。自分を誇示したり、名声を求めたり、優越感に浸ったりする心では、神を見ることはできません。

 イエス様の十字架の贖いを信じ、その復活の命をいただいた人が、きよい心になれるのです。自分に死んだ人でもあります。すべてを献げて、主のものとなって、教会を愛し、神を愛して生きている人です。パウロの言葉で締めくくります。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ人への手紙12章1節)。ここで言われている「からだ」は、全体のことと理解するとわかりやすいでしょう。あるいは、心もからだも、思いも理想も、すべてを献げることでしょう。神様のものになってしまう……そんな恵みの世界の入り口です。あなたは献げましたか。

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