聖日礼拝メモ 8月16日

聖書 マタイの福音書5章1−12節

 昨日は、310万人が亡くなられた戦争が終わった日でした。悲しい出来事です。中には、信仰のゆえに死なれた方もあります。

 今日は、「義のために迫害されている人」の幸いについて考えます。イエス様が天に帰られた後、教会は迫害を受け始めます。およそ200年にわたり、迫害の時代が続きます。ある人は、「クリスチャンが受けた刑罰の恐ろしさは言語に絶するものがあった」と言っています。

 迫害を受ける理由を挙げると、大きく二つあると考えられます。一つは、間違った理解から生まれる中傷です。聖餐式を誤解してクリスチャンは人肉を食べているとか、愛餐を守ることを不品行だとか、最後の審判の話しから放火狂だとか、家庭を破壊する者だとか考えられて、迫害されることがありました。今一つは、政治的な理由です。皇帝礼拝に参加しないための迫害です(これは日本でも同じように迫害されました)。

 「義のために迫害される」とは、キリストを信じる信仰のゆえに迫害されるということです(ヨハネ15:20を参照)。パウロは言っています。「肉によって生れた者が、霊によって生まれた者を迫害した」と(ガラテヤ4:29)。この言葉は、アベルとカインの兄弟のことを思い出させます。

 イエス様の生涯を見ると、何度も石を投げられそうになりました。律法学者たちやパリサイ人たちが命を狙っていました。そして、最高法院と祭司長たちは、ついにイエス様を捕らえて、十字架につけてしまいました。ピラトも、自分の権限でイエス様を釈放できたのに、十字架につけるために引き渡してしまいました。彼らは、自分に都合のよいことを選んで、イエス様を迫害したのです。今も、イスラムの国や共産主義の国では、クリスチャンは迫害されています。ただクリスチャンであるというだけで迫害されるのです。

 私たちは、「義のために」苦しむことがあることは、パウロもはっきりと語っています。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)。それは、単に気難しさのための迫害ではありません。愚かさ(無思慮)や狂信のために受ける迫害でもありません。特別の主義主張を持っているための迫害でもありません。

 イエス様は、「天の御国はその人たちのものです」、と言われました。これは、心の貧しい人の時も、同じように言っていました。天の御国は神の国のことです。神が治めている国です。それはそれは豊かな国です。美しい国、喜びに満ちた国です。

 ですから、迫害されても、仕返しや復讐をしてはなりません。気落ちしてはなりません。神の裁きに委ねることです。イエス様は、かえって喜ぶように言いました。それは、永遠のいのちをいただいていることが分かるからです。そして、大きな報いを受けられるからです。天地を創造した神様を知り、十字架の贖いをいただき、主との交わりを経験しているのですから。さらに、天において、神様とじかにお会いすることができるからです。

 もう一つの喜ぶ理由は、預言者たちと同じように、神様が見てくださるからです。旧約聖書には、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤ、ダニエルなど、素晴らしい預言者たちが記されています。ですから、迫害を受けても、愛と謙遜と柔和をもって、真実に生きていくのです。それが、イエス様の願っていることです。そうするならば、天において主はすばらしく大きな報いをお与えになるでしょう。

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