聖日礼拝メモ 7月26日
聖書 マタイの福音書5章1−12節
イエス様のなさった山上の説教を理解する時に注意しなければならないことは、どんなことでしょうか。それは、背後にある福音を読み込むことでしょう。それなしには、この説教を自分の信仰に生かすことが難しいことになります。
さて、今日は、五番目の幸い、「あわれみ深い者」の幸いを考えます。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」この文章は、大変分かりやすいと感じます。ある人は、これは「情けは人のためならず」ということだ、と説明しています。でも、そうなのでしょうか。
「情けは人のためならず」という諺は、人によって二つの受け取り方があります。一つは、情けをかけても、その人のためにならない、自立を妨げるから、あまり情けをかけないほうが良い、という受け取り方です。もう一つは、情けをかけるといつか自分にも情けをかけられる、という受けとめ方です。だから、人に情けをかけるのを勧める、そういう理解です。
辞書を見ますと、どちらを取るかは、半々になるとありました。でも、本来は、後の方の理解が正しいとも、書かれていました。ですから、この聖句の意味を「情けは人のためならず」と取った人は、後者の意味で語っているのです。しかし、それなら、わざわざ山上の説教の冒頭で話すほどのことでもないように思います。
それでは、皆さんは自分があわれみ深い人間だと思っていますか。私自身は、そう思えません。同情する心はあっても、自分はあわれみ深い人間だと言えるほど、あわれみ深くはないのです。なぜなら、人は、自分中心だからです。
本当にあわれみ深い人は、イエス様です。ヘブル人への手紙2章17節では、「あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、」イエス様は受肉をされたことが記されています。天から見下ろして憐れむのではなく、同じ人間となってその現実を知って、憐れむ方がイエス様です。そのあわれみは、福音書の中に何度も現れています。
ルカの福音書7章には、ナインの街に近づいたイエス様の一行のことが記されています。町の中から、一人息子を亡くしたやもめの葬列が出てきます。そのやもめの涙を見て、イエス様は「泣かなくてもよい」と言って、棺に触り(たんかのような棺です)、「若者よ、起きなさい」と言って、青年を生き返らせます。イエス様は頼まれたのではなく、ご自分から近づいて慰め、生き返らせておられます。あわれみ深いみわざです。
また、ヨハネの福音書には、11章にラザロの死とよみがえりの記事あありますが、その時、「涙を流された」と記されています。マルコの福音書10章には、盲目のバルティマイが「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と嘆願し、目を見えるようにしていただいています。あわれみとは、単なる同情ではなく、何らかの行動を伴うものと言えます。
あわれみと恵みは、とても似ています。あわれみは、罪がもたらすさまざまな苦しみからの解放をもたらしますが、恵みは、罪そのものからの解放をもたらします。
あわれみ深い人の特徴の一つは、「罪と罪人を区別する」ことでしょう。救いを受ける前の自分が、罪の支配を受け、サタンの思うとおりになっていたことを知っているので、どんな人を見ても、たとえ犯罪を犯す人でも、あわれみを感じるのです。罪は憎みますが、罪人をあわれむのです。そんな見方ができるようになるのです。その人は、復讐や仕返しをしなくなります。その意味でも、あわれみ深い人は幸いです。
最後に、「その人たちはあわれみを受けるからです」という、イエス様の言葉に心を向けましょう。
主のあわれみを受けて、救いにあずかっても、人間であることには変わりません。知識も不完全ですし、判断力も不完全です。ですから、よいと思ってやって来たことも、主の目から見ると、過ちということもあるわけです。そういう私たちが、主の再臨の日に、主の前に立つとき、主のあわれみを受けられるのです。
今、イエス様の十字架の贖いによって、主のあわれみで生かされているのですが、主の再臨の時にも、主のあわれみを受けられるのです。そして、御国に入れていただき、栄光のからだをいただいて、主に仕えるのです。なんと幸いなことでしょう。