聖日礼拝メモ 7月19日
聖書 マタイの福音書5章1−12節
山上の説教は、八つの幸いで始まっています。今日は、四番目の幸い、「義に飢え渇く者」の幸いを考えます。
6節は、こうなっています。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
この言葉の中で、まず、「飢え渇く」についてですが、空腹と喉の渇きを表す言葉です。どちらも強い必要性、欠乏感を表す言葉が使われています。また、「満ち足りる」という言葉は満腹するという意味の言葉です。
「義」に飢え渇くという時の、「義」とは何を指しているのでしょうか。現代の世の中には、さまざまな不正が満ちています。詐欺事件、殺人事件、強盗などが、この世から無くなることを言っているのでしょうか。それが無くなるならいいことですが、イエス様が言っておられる「義」とは、神がくださる義、つまり救いのことですし、罪の赦しのことです。心の貧しい人は、罪を悲しみ、神の救いを求めるのです。ですから、義に飢え渇く人は、自分の力なさ、ふがいなさ、罪深さを知っている人です。神様に頼らないとやっていけない人です。
詩篇42篇の1節、2節には、こう謳われています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。」この人の渇きは、どんなに強かったことでしょう。彼も、義に飢え渇いた人であり、神様とその救いを真実に求める人です。
アフリカへの宣教師となったモファットの回心の出来事の中にも、心の貧しい人、罪を悲しむ人、義に飢え渇く人の姿が見られます。飢え渇いた人が主に叫ぶ時、主は真実に答えてくださいます。そして、満ち足りるのです(詩篇17:15を参照)。
イザヤは、救い主の苦しみを描いた後で、その結果与えられる恵みを謳っています。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」水や脂肪は、すべての必要を満たすものを表します。「水を求めて出て来る」とは、命を脅かす渇きが、十分に満たされることを示しています。「金のない者」に買うことを勧め、「金を払わないで」とか「代価を払わないで」というのは、53章に書かれている「主のしもべ」、つまり救い主が十字架で代価を払ってくださるから、そう言われているのです。「ぶどう酒と乳」は、救いの豊かさを示しています。満ち足りる恵みです。
新約聖書を見ると、主イエス様が招いている言葉があります。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水が流れ出るようになります」(ヨハネ7:37-38)。救いを求めて飢え渇いている人を、イエス様はご自身に来るように招いています。「飲みなさい」とは、信じなさいという意味です。
もう一つ、黙示録22章17節を開きましょう。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者はただで受けなさい」とあります。いのちの水が心を潤し、慰めと喜びをもたらすのです。主イエスの十字架の贖いの効果が、私たちの心に届くことを示しています。もう受けたでしょうか。
飢え渇く人の救いは、自分で満たすことができないものです。私たちは、無力なのですが、「何を言ってる。自分だってこんなにできるぞ」と言う心には、主イエス様がくださる平安はないのです。
イエス様が天から降って、十字架にかけられ、身代わりに死んでくださったことは、3日目の復活によって証しされている事実です。このことを真実として自分も受けます、と言う人に、イエス様の恵みが注がれるのです。赦された安堵と感謝が湧いてきます。イエス様のところに来るとは、そういうことです。
イエス様との交わりを深めれば深めるほど、満足は大きくなってゆくことでしょう。
ここの「満ち足りる」という言葉も、受身形で、満ちたらせてくださるのは、主なる神様です。罪の赦しをくださる主イエス様に従って行くとき、心に平和をくださいます。
私たちは人間ですから、一度心を潤されても、また渇くことがあります。そのときも、主イエス様のもとに行き、平安と喜びを更新していただけます。主はいつもそこにおられるからです。主よ、ありがとうございます。