聖日礼拝メモ 7月5日

聖書 マタイの福音書5章1−12節

 この朝は、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」に心を向けましょう。

 世の中では、悲しむ人はかわいそう、と言うのが普通です。しかし、イエス様は、悲しむ者は幸いです、と世の中の人が聞いたら、ばからしいと思うようなことを言われました。しかし、イエス様の言葉には、意味があるはずです。考えてみましょう。

 ラザロが死んで、マルタとマリアのもとに行かれたイエス様は、ラザロの墓の前で泣かれました。このような悲しみを幸いと言っているのではありません。何人もの人が、この悲しみは、死別の悲しみ、職や財産を失った悲しみのことではないと言っています。やはり、イエス様が言われる悲しみは、霊的なものです。

 パウロの手紙の中に、次のような言葉があります。「あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:9−10)。ここに書かれている悲しみは、悔い改めによって救いに、つまり喜びに変えられたのです。ここに慰めがあります。

 自分のしてしまった過ちや罪を悲しむことは、悔い改めを通して、主の慰めを受けることができるのです。その意味で、罪を悲しむことは幸いに通じるのです。

 ある方は、親しい人から言われたことに対して憎しみが湧き、憎しみを振り払おうとしてもできずに、悔い改めてイエス様にお頼りしました。すると、憎しみから解放されたのでした。それが出発点となって、イエス様に従う人となりました。世の中には、憎しみを殺意にまで膨らませる人があります。そうすると、心が縛られてしまいます。罪を悲しまない心は、恐ろしいことです。

 罪を悲しむ人の代表は、イエス様です。イザヤは、救い主のことを「悲しみの人」と言っています(イザヤ53:3)。ルカの福音書19章には、エルサレムを見ながら涙を流されたイエス様の言葉が記されています。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら――。…彼らはおまえに中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残しておかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」(ルカ19:42-44)。救い主が来られたのに、罪の自覚が乏しく、悔い改めに至らないばかりか、救い主を十字架につけてしまうという恐ろしい罪のために、イエス様は泣いておられたのです。

 パウロの言葉にも目を向けましょう。「誰かが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか」(Ⅱコリント11:29)。ここにも、罪を悲しむ人がいました。

 旧約聖書には、エレミヤという預言者が涙を流した記事があります。それは、神の言葉を聞かず、バビロンに捕囚になったイスラエルの人々の罪を悲しんだ涙でした。

 自分の犯した過ちや罪を悲しんで、神の赦しをいただいた人は、どんなに喜んだことでしょうか。その喜びは、「聖霊による喜び」」です(ローマ14:17)。それが、イエス様の言われる慰めでもあります。

 そして、慰めを受けた人は、それで終わるのでなく、周りの人に心を用いるようになります。苦しんでいる人や悩んでいる人に同情し、助けの手を差し出すことができるのです。アーネスト・ゴードンが「死の谷をすぎて」(後に“クワイ河収容所”に改題) という本に書いてある、クワイ河の捕虜収容所の出来事は、罪を赦されて慰めをいただいた人たちが、苦しむ日本兵を助ける様子を書いています。それは、ジフテリアにかかって動けないゴードンを二人の若者が世話をして健康を回復させてくれたのです。そこから数々の奇跡が生まれ、「敵」であった日本人傷病兵の世話をする愛の人に変えられたのです。

 連合国将校がゴードンに向かって叫びます。「何ていう大ばかやろうなんだ、きみは! ……そこにいる奴らは、……おれたちの敵なんだ。」ゴードンは答えます。「私の敵がどこにいるんですか。……あそこの人は、敵ではなく私の隣人じゃありませんか。神は隣人を創られたが、敵を作るのは私たち人間です。……私の敵とは、実は、私の隣人であるのです。」

 悲しむ者が幸いなわけは、このような主の赦しと恵みが注がれるからです。

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