聖日礼拝メモ 6月21日
聖書 マタイの福音書5章1−11節
山上の説教に入ります。昔は、山上の垂訓と言われました。でも、これで、人々は、山上の説教から離れて行きました。なぜでしょうか。「垂訓」というと、教訓を垂れるという意味です。教訓なら聞かなくてもいいや、と人々は思ってしまったのでしょう。残念なことです。
また、一世紀ほど前には、この山上の説教を皆で守れば、世界は平和になると、思っていた人々がいました。でも、その後、二つの世界大戦をしてしまったのが人間です。山上の説教を皆で守るのは、理想かもしれませんが、現実的ではなかったのです。今では、そのように考える人はいないでしょう。
そもそも、マタイの福音書にこの山上の説教が書かれたのは、この福音書がユダヤ人のために書かれたからでした。ユダヤ人は、律法を守ることに熱心でした。そして、救い主が来られて、ローマの支配から脱するのを願っていました。それに対して、マタイは、イエス様の福音は、それとは全く違うものであることを示したかったのです。それで、最初の弟子たちと活動の全容を書いた後で、この山上の説教を記したのです。そして、イエス様が願う弟子の姿を見ることができるのです。
山上の説教は律法ではありません。6章15節に「人を赦さないなら、あなたがたの父も、あなたがたの過ちをお赦しになりません」とあるみ言葉を、これは律法ではないか、という人があります。それを解く鍵は、18章にあります。そこには、1万タラントの借金を免除してもらいながら、100デナリの貸金を取ろうとした男の話があります。そのたとえの結論に「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにこのようになさるのです」と一生牢の中で過ごさなければならない人のことを話しています。1万タラントとは、六千億にもなる大金です。到底返済できない借金を例に出して、イエス様は、あなたの過ちがどんなにあっても、赦されたのなら、人の過ちを赦せるでしょう、と語ったのです。私たちの過ちが赦されるのは、イエス様の十字架の上でなされた身代わりの死、私たちのために罰を受けてゲヘナにまで行ってくださった贖いのみわざの故です。ですから、自分の過ちを赦されている人は、他の人の過ちを赦すことができるのです。ここに、福音があります。これが土台となった言葉が、6章15節の言葉です。そこには、律法ではなく、恵みが支配しているのです。
このことからも、山上の説教は弟子たちに語られたものであると言えます。「あなたはクリスチャンであるなら、このように生きなさい」という、イエス様のお心が分かってきます。
ある人は、山上の説教にあるものは、全て新約聖書の中の手紙に見出される、といいます。つまり、山上の説教は弟子のため、弟子の方向づけの語りかけであると言えます。山上の説教は、単に律法を仕上げるものではないのです。それ以上のものです。
イエス様の教えの中で一番大切なのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という教えです。どのように愛したらよいのかを教えるのが、山上の説教だと言えます。
どのように山上の説教を実行するのでしょうか。まず、新しいいのちをイエス様からいただくことです。罪を赦され、上から生まれる恵みをいただくのです。この恵みなしに、山上の説教を実行しようとしても失望するだけです。
赦された者に、イエス様は聖霊を送ってくださいます。聖霊によって生かされ、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きていくとき、生まれつきの元気ではなく、恵みによって山上の説教を生きることができるのです。これを実行しようとすると、祝福を経験します。神様の祝福をいただきたい人は、まず山上の説教に心を向けなければならないのではありませんか。
昔、共産主義の宣伝をする人たちがいました。それに乗って、共産主義になった人たちがいました。しかし、福音には、さらによいものがあるのです。ある人たちは、共産主義から福音に回心しました。その人たちは、説教を聞いたからでなく、本を読んだのでもなく、「クリスチャンが想像も及ばないほど、自分を捨て、他人を思いやる姿を見て」回心したのだそうです。私たちが伝道するときにこのことを心に留めておきましょう。主は、聖霊によって主の愛を注いでくださっているのですから、
山上の説教は有名です。たくさんの人がこの箇所から説教しています。私たちは、この山上の説教をどう読んだらよいのか、今日はその序論のようになりました。次回から中身を見て行きましょう。