聖日礼拝メモ 6月14日
聖書 マタイの福音書4章18−23節
聖書は、神の霊感によって書かれたものと言われます(Ⅱテモテ3:16)。時には、人間の思いもしなかったことが書かれています。その時、私たちは神様のみこころがどこにあるのかを祈りながら求めていきます。今朝の箇所も、求めながら読んでいきます。
この箇所には、最初の弟子たちを集めたことと、イエス様の宣教のまとめが書かれています。弟子を集めたことが、当時としては異例のことだったようです。その頃は、生徒が先生を選んで、弟子入りするのが普通だったからです。イエス様が選んだ弟子たちは、どんな人達だったのでしょうか。
まず、シモンとアンデレが登場します。ここには「ペテロと呼ばれるシモン」と書かれています。この「ペテロ」については、ヨハネの福音書1章を見ると理解できます。
ヨハネの福音書1章40−42節には、弟のアンデレが、バプテスマのヨハネの弟子として登場し、ヨハネの言葉に動かされてイエス様の後を追い、素晴らしい交わりをいただいたこと、その結果、アンデレはイエス様を救い主と信じて、兄のシモンにそのことを告げ、イエス様のところに連れて来たことが記されています。その時、シモンを見て、イエス様が言われた言葉が、記されています。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えればペテロ)と呼ばれます。」ペテロとは、岩を意味する言葉です。将来、彼は教会の柱になるのです。イエス様は、そのことを見越してシモンを選んだのでしょうか。もしそうなら、すごいことですね。
さらにルカの福音書5章1−11節には、シモンの船に乗って、陸にいる人たちにメッセージを語り、その後で網を下ろすように言われたことが書かれています。網いっぱいの魚に驚いたシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」と声を掛けたイエス様の姿が描かれています。この言葉は、マタイが伝える「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」に通じるものです。マタイは、シモンを弟子にしたことを記していますが、その背後にいろいろなことがあったことが分かります。
アンデレについては、先にありましたバプテスマのヨハネの弟子から、イエス様の弟子になった人ですが、何人もの人をイエス様の元に導いた人(ヨハネ6:8−9、12:21−22)です。シモンとアンデレは後に十二弟子に選ばれました。
次は、ヤコブとヨハネです。ゼべダイの息子たちです。彼らはシモンたちの仲間でした。彼らが、バプテスマのヨハネの弟子であったかどうかは分かりませんが、彼らの家が裕福な家であったことは分かります。一つには「雇い人」を使っていたことから(マルコ1:20)、また「大祭司の知り合い」であったことから(ヨハネ18:15)エルサレムに家を持っていたのではないかと、言われます。
この兄弟は気性が激しく、サマリアの町に火を降らせて滅ぼすことを提案し、イエス様にたしなめられています(ルカ9:54-55)。また、イエス様は彼らに「ボアネルゲ、すなわち雷の子」というあだ名を付けたことが記されています(マルコ3:17)。そんな弟子たちを選ばれたイエス様の心には、現実よりも将来に期待した思いがあったのでしょう。シモンにしても、ヤコブやヨハネにしても、イエス様との交わりの中で、変えられていくのです。教会の柱になっていくのです。私たちも、イエス様についていく中で、変えられていくことを期待できます。
さて、イエス様の宣教活動についてのまとめが続きます。
イエス様の活動範囲は、ガリラヤが中心でした。ガリラヤの会堂を用いた伝道でした。会堂は、バビロン捕囚になってから生まれた祈りの場、礼拝の場でした。もともと「集まる」意味の言葉でしたが、だんだんと集まりの場を意味するようになって、イエス様の時代には、おもに建物のことを指していたのでした。ユダヤ人は十人が集まれば会堂を建て、会堂司を置いて、礼拝のプログラムや説教者を決めていました。十人が十分の一のささげ物で会堂司を支えていました。これが、私達の月定献金のもとになったのでした。
イエス様は、会堂で「御国の福音」を説いたのでした。マタイは癒しについて詳しく書いています。それは、福音の実証としてなされたのです。イエス様の愛とみ力の表れでした。今も主は同じ愛とみ力を持って私たちに対しておられます。感謝です。
イエス様の評判は、大変広い範囲に及びました。「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こう」とあります。デカポリスは、10の都市の連合です。ヨルダンの川向こうとは、ペレアと言われた地域で、ヨルダン川の東にありました。イエス様の宣教の結果、たくさんの人が弟子になったことが分かります。
「イエスに従った」という言葉が三度出てきます。初めの二つは四人の弟子たちの従った姿を表しています。彼らは、自分の仕事を辞めて、イエスとともに生活する弟子になったのです。献身者と言って良いでしょう。その他の「従った」人たちは、それぞれの立場で、イエス様の教えを吸収し、神の福音に生きようとした人たちです。「大勢の群衆」がこのような生活に入ったことは、リバイバルと言って良いでしょう。
私たちは、イエス様に従うことによって、シモンやヤコブ、ヨハネのように、変えられてゆくことができることを感謝します。もし、変えられていないと分かったら、自分の心を調べてください。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」がないかどうかを。
聖書には、永遠のいのちを求めてきた青年が、イエス様の言葉を聞いて、悲しんで去っていったことが書かれています。彼は、イエス様が言われる「天に宝を積む」ことより、目の前に生活のことに心が囚われていたのです。イエス様は、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」と嘆きました。
しっかりと天の御国を目指して進みましょう。聖書が道を示してくれます。