聖日礼拝メモ 5月31日
聖書 マタイの福音書4章1−11節
私たちは祈りあっていかなければなりません。そうでないと、自分中心の信仰になってしまいます。隣り人を愛しなさいという、主イエス様の至上命令を守るのです。それができなくならないために、聖書があり教会があります。今朝は、イエス様の姿から、み言葉の重要性が浮き彫りになっています。
マタイの福音書4章です。「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行った。」イエス様はヨルダン川でバプテスマを受けましたから、「上って行った」と言われているのは、ふさわしいことです。バプテスマを受けて、神の子として、王であり、苦しむしもべという使命を果たすために、試みを受けました。人工衛星を打ち上げるロケットでも、その前にいろいろな試験をするように、大きな使命のために、イエス様は試みを受けたのです。
四十日四十夜、断食したとあります。モーセも、シナイ山で四十日四十夜、断食して律法をいただきました。イエス様はこの四十日の間、何をしていたのでしょうか。これから使命を果たすために、祈りに身を渡していたのでしょう。その祈りは空腹を感じることもないような激しいものだったのでしょう。祈り終わった時に、空腹を感じたとすると、その空腹は猛烈なものだったのではないでしょうか。それに漬け込むかのような、悪魔の試みだったのです。
「試みる者」とは、悪魔のことです。彼は、まず、食欲を満たすように誘います。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
しかし、イエス様は、ご自分の使命を果たすために、人間になられたのです。ここで、神の子の力を働かせるなら、人間としての使命が果たせません。イエス様は、言いました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」これは、申命記8章にあるモーセのことばを引用したものです。荒野を旅をしたイスラエル人の信仰を試すために、日毎にマナを集めていたことを思い起こします。神への信頼が求められていたのです。
悪魔の次の火矢は、聖なる都、エルサレムの神殿の屋根の上からの、試みでした。下にはイスラエル人がたくさんいる、そこに飛び降りてみなさい、と誘ったのです。それに、詩篇の言葉を添えて、試みました。「『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」と言ったのです。これは、信頼をするふりをして、神を試みることです。ですから、イエス様は、「『あなたの主である神を試みてはならない』と書いてある」と答えました。この言葉は、申命記6章にあります。そこには、「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない」となっています。マサとは、エジプトから脱出したイスラエル人が、渇きに苦しんで、モーセを石で撃ち殺しそうになった場所です。エジプトからの脱出が、どれほど神様の恵みであるかを考えず、ただ、荒野で水が飲めないことに文句を言って、モーセを殺そうとしたのです。その恩知らずのイスラエル人の態度から、神を試みるという悲しい出来事となったのです。イエス様はそうした昔のイスラエル人の不信仰を、ご自分が踏み行うことは絶対にできないことを知っておられ、「あなたがたの神である主を試みてはならない」と喝破されたのです。
さて、悪魔は、最終的な試みを提案します。「この世のすべての王国とその栄華」を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」と言ったのです。それはもともと、神様のものであり、悪魔が勝手に取り上げていったものです。イエス様はそれを神様のもとに取り戻すために、人となったのです。十字架の死と復活を通して、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言えるようになることを十分知っておられたイエス様は、悪魔を礼拝することは絶対にしません。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」と一喝されました。この世の支配は、悪魔を拝むことによってではなく、十字架の苦しみを通して与えられるのです。目的のために手段を取り違えてはならないのです。
こうして、悪魔を追いやりました。悪魔はその後も何度も主イエスを試みますが、決して勝つことはできません。悪魔は、征服されたものとなったのです。主イエス様こそ、救い主としてふさわしい方なのです。
ここで、もう一つの試みであるエデンの園に目を向けてみましょう。園には、何千という実のなる木があり、食べ物には何不自由ないところでした。そこで、アダムとエバは、試みに敗れたのです。イエス様は、荒野で断食して空腹の中で、試みに勝利したのです。
石をパンに変えて空腹を満たせという試みは、肉体の欲に関わる試みです。神殿の屋上から飛び降りるという試みは、人々の歓迎を受けるようにという精神的な試みです。悪魔を拝むことは、霊的な礼拝に関わる試みです。ヨハネはこう言っています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」(Ⅰヨハネ2:16−17)イエス様は、どの面から試みられても、適格な応答をなさいました。それは、申命記のお言葉を使うという方法で勝ち取りました。
悪魔も聖書を使いましたかた、正しい聖書の理解がどんなに大切かを教えられます。聖書は、聖霊の助けをいただいて読み、正しく適用していかなければならないと、つくづく思います。イエス様の足跡に従っていきましょう。