聖日礼拝メモ 5月24日

聖書 マタイの福音書3章13−17節

 今年のペンテコステの日となりました。聖霊が天から注がれ、弟子たちの心が潔められ、罪の性質が焼き尽くされた出来事でした。それにより、宣教の働きが著しく前進したのでした。使徒の働きはその記録です。

 さて、今朝の聖書箇所は先週につづいて、マタイの福音書3章です。バプテスマを受けて、イエス様の生涯に新しい段落が始まったのです。

 イエス様は、ご自身の使命を果たすために、いつそれを開始したらよいかを、伺っていました。そこにヨハネの伝道の状態が伝えられて来たのです。「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て」と記されているのです。このリバイバル状態を知って、イエス様は立つべき時と感じたのでしょう。ヨルダン川に出向き、ヨハネからバプテスマを受けたのでした。

 ヨハネは、最初、自分こそバプテスマを授かりたいと、申し出ますが、イエス様は、「正しいことをすべて実現する」ためにバプテスマを受けることにしたのでした。これは、罪のないイエス様が人々の罪を背負って十字架に死ぬ贖いのわざの出発点でした。ですから、ヨハネは、イエス様を指して、「世の罪を取り除く神の子羊」と呼ぶのです。イエス様は、救い主の使命を果たすために、あえてこのバプテスマを受けることにしたのです。これが「正しいこと」だったのです。

 バプテスマを受けたイエス様は、「すぐに水から上られた」と書かれています。ヨハネの与える水のバプテスマでなく、イエス様は「聖霊と火」によるバプテスマを早く与えたかったのではないかという人もあります。しかし、それにはそれから3年はかかるのです。イエス様は急ぎませんでした。人々の心がどのように進むかを見極めながら、進んでいかれました。

 さて、イエス様が水から上られ、「天が開け」たとき、天からのみ声が聞こえました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と。このみ声は、旧約聖書に基づいて語られているようです。

 まず、「これはわたしの愛する子」とは、詩篇2篇7節の語りかけを用いたものです。詩篇2篇は、「王の詩」と言われる詩篇です。つまり、主イエス様は、父なる神様から王として愛されている方です。全ての人を支配する王となる方です。

 次の、「わたしはこれを喜ぶ」とは、イザヤ書42章1節から取られていると考えられています。このイザヤ書の42章の言葉は、苦しむしもべである救い主の預言がはじまるところです。つまり、救い主イエス様の苦しみに満ちた贖いの人生が始まることを意味しています。このような語りかけがあったことは、これまでの30年に及ぶイエス様の生涯が父なる神様の承認を得たこととともに、これからの伝道生涯に父なる神様の助けが与えられる保証でもあります。イエス様は、たびたび、ご自分のしていること、話していることは、父なる神様が示し、教えてくださっていることだと、語りました。

 イエス様は、私たちの模範としても、このような歩みをされたことを思うと、私たちも聖霊に満たしていただき、御声をかけていただきたいと願うのは自然なことです。

 さて、天が開けて聖霊が降りました。私たちも天が開いた人生を送りたいものです。

 「あなたがたは、果たして開かれた天の下に生活し、神との交わり、神に対する信仰を持っておられるだろうか。これこそ、御霊のバプテスマがわれわれに与えるものである。

 「キリストの復活と昇天とは、神の子どもたちに対して、天を開いてくださったのである。そして天界の光の中を歩むことは、われわれの特権である。われわれの足はこの地上を歩いているが、われわれの心、われわれの関心、われわれの希望、われわれの生命は、すべてかなたの世界に向けられている。だから、神の愛といつくしみの中を歩むことは、われわれの特権である。『神は、みこころの良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによって、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました』

 「われわれは放蕩息子のように、台所でまた豚小屋の中で生活する必要は少しもない。かえって父の愛の中にこそ、われわれの立場をとるべきではないか。われわれが正しいから受け入れられるのではない。われわれが不義があるからといって、追い出されるのでも、決してない。あの日、ヨルダン川で、ひとりの人イエスが父なる神を心からお喜ばせしたので、彼を受け入れ、彼の内にいるすべてに罪人を永久に喜ばれるのである。さらに、神は、ご自身の恵みをわれわれに与えることを望んでおられる。そのためわれわれは、瞬間瞬間、すべてのことが神に喜ばれる歩みの中を歩むことができるのである。おお、われわれは、開かれた天の下を歩み、御父がわれわれに「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とささやかれるのを聞く者でありたい。」(A・B・シンプソン著、「マタイ伝のキリスト」より)

 ペンテコステに聖霊に満たされた弟子たちは、まさに開かれた天の下を歩み続けました。私たちもかくありたいものです。主よ、聖霊をお注ぎください。

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