聖日礼拝メモ 5月17日

聖書 マタイの福音書3章1−12節

 今朝は、聖宣神学院の創立記念日です。敗戦後、青山学院で学生たちの心のケアを行なっていた蔦田二雄先生は、伝道、牧会への再出発を期して、いろいろな人との交渉を行いました。1945年10月21日、ついにそのことが決定し、船橋の地で伝道を開始したのです。しかし、東京に出て行かなければならないとの使命を感じ、丸の内に進出しました。そこで多くの若い人たちが救われ、主のために身を捧げる人たちが起こると、新学院を開始したのです。それは、丸の内の借りている部屋の一画で始まりました。20名の一期生が生まれます。しかし、狭い場所から、広い場所に移らなければならなくなり、北浦和の地に良い物件を手に入れます。そこに移転して、翌年には青年たちのために林間聖会を始めます。しかし、そこも神学院にふさわしい環境ではなくなり、横浜の藤が丘に移転します。そこに教室とチャペル、学生寮を建てたのです。これまでに、300人を超える卒業生を生み出しました。現在11名の在校生がおります。多くの献身者が起こされることをお祈りいただきたい。

 さて、マタイの福音書3章です。2章の終わりからおよそ30年が経っています。ユダの荒野にバプテスマのヨハネが現れ、福音を説き始めます。そのことは、預言者イザヤの言葉の実現でした。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」(イザヤ40:3)。この言葉は、大いなる方が来られるから、心の用意をしなさい、という意味でしょう。「主」がこられ、通られるのです。そのための準備をするのが、ヨハネの使命です。

 ヨハネは、この方について、次のように語りました。「私の後に来る方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。」履き物を脱がせるのは、奴隷の中でも最も下位のしもべのすることです。ヨハネは、自分はそれさえできないと、いかに優れた方が来られるかを示しました。さらに、ヨハネは、その方の働きについて、次のように語りました。「その方は手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」これは、裁きを表す言葉です。麦は、悔い改めた人たち、殻は悔い改めなかった人たちでしょう。火については、10節にも記されています。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」と。激しい裁きの言葉です。そして、悔い改めの実を結ぶことが意識されています。人によっては、悔い改めた後で、元に戻ってしまう人があったのです。

 さて、ヨハネが人々に語った言葉は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2節)でした。これは、主イエスが伝道活動を開始したときと同じ言葉です。救い主の先駆けにふさわしいものです。

 この「悔い改め」ですが、手元の辞書を見ると、「今までの自分の行動が悪かった、間違っていたことに気づき、それを直すことを心に誓う」こととあります。聖書では、メタノイアと言うギリシア語の訳として使われます。このギリシア語は、心を変えると言う意味の言葉です。英語の聖書には、「罪から神に心の向きを変える」と訳されています。別の聖書には、「心と生活を変える」となっています。ギリシア語の辞書には、こんな説明があります。「自己の主権を放棄し、自己の行為の義への依存を捨て去って、キリストに全く依存し、キリストをわが生活の主とする、心の根本的な切り替えをすること。」ある人は、悔い改めとは、自己中心からキリスト中心に心を切り替えることと言います。方向転換がなされることです。ところが、ある人は、方向転換が完全になされず、元に戻ってしまうのです。ですから、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言われているのです。どうしたら、元に戻らず、神に向き続けることができるのでしょうか。それは、聖書に親しむことです。読み続けることです。毎日、聖書の言葉に触れていると、元の自分中心に戻りそうな時に、光が与えられ、主に向き続けることができるのです。

 ヨハネが語った「天の御国」についても考えておきましょう。この言葉から、天国を連想する人もあるでしょう。ですが、この言葉は、マタイ独特の語り方で、他の福音書では、「神の国」となっています。さらに、この「国」と言う言葉は、もともと「支配」を表す言葉です。つまり、神のご支配が近づいたと、ヨハネが語ったのです。

 では、どのようにして、神のご支配を心にいただけるのですか。それが、「聖霊と火でバプテスマを」いただくことによってです。

 ヨハネは、水でバプテスマを授けていました。これは、水に浸されて、過去の罪を埋葬することと、洗い清めることを表していました。しかしそれは、しるしであって、本質的な出来事は、聖霊と火のバプテスマでなされることを表していたのです。感謝なことに、聖霊によって聖くされ、聖霊の働きにより古い罪を焼き滅ぼしていただけるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、みよ、全てが新しくなりました」と言われるとおりです(Ⅱコリント5:17)。私たちは、イエス様の十字架のゆえに、罪を赦され、解放されるのです。なんと幸いなことでしょう。心に天の御国を、神様のご支配をいただきて生活できるとは、なんという特権でしょうか。感謝です。主イエス様にお従いしてまいりましょう。

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