聖日礼拝メモ 5月10日
聖書 マタイの福音書2章19−23節
クリスマスにもあまり開かれない箇所です。それで、この章に多い「夢」について、またマタイの福音書に多く出てくる「成就」の言葉について、最後に「ナザレ人とよばれた」イエス様の姿をお話しします。
まず、夢についてです。旧約聖書には83箇所も書かれています。新約聖書にはわずか7回で、そのうち6回がマタイの福音書です。旧約聖書では、神のメッセージを伝える一つの方法として使われていました。創世記とダニエル書だけで66箇所です。
まだ新約聖書が完成していなかった時、ヨセフや博士たちに夢でメッセージを伝えることがなされました。これは、旧約聖書を引き継ぐものとして、マタイの福音書の最初の部分に夢が現れていたと考えられます。ですから、今、私たちは、新約聖書を持っているのですから、改めて夢を使う必要はないと言えます。緊急の、それも特別の場合でなければ、夢がメッセージを伝えるものとして使われないのです。
さて、次に取り上げたいのは、「成就」です。この言葉は、新約聖書には32箇所に出てきますが、マタイの福音書には、13回現れます。他の書の中では、ヨハネの福音書に9回使われています。マタイは、旧約聖書との関連で救い主を紹介するために、この成就という言葉を使っています。
この23節にあるように、「成就するためであった」とか、「成就した」という表現を何度も使っています。1章22節、2章15節、17節、23節、4章14節、8章17節、12章17節、13章35節、21章4節、27章9節などです。
マタイは旧約聖書を研究して、この他にも、イエス様の生涯と旧約聖書の記事との整合性を調べ、色々と付合するものがあることを知ったのです。12章6節にある、「ここに宮よりも大きなものがあります」とか、同じ章の41節と42節にある「ここにヨナにまさるものがあります」、「ここにソロモンにまさるものがあります」などは、イエス様がどんなに優れた方かを表しています。つまり、イエス様は旧約聖書全体を成就した方として語っているのです。先週イエス様のエジプト行とモーセの救出とが関連があるとお話ししましたが、同じような関連がいっぱいあるのが旧約聖書なのです(かつて「六十六巻のキリスト」という本がありました。最近では、小山田格師は「旧約聖書におけるキリスト」を著しています)。そういうことが分かってくると、旧約聖書が楽しくなります。
最後に、「ナザレ人と呼ばれる」について、考えます。ここに書かれている旧約聖書の引用文は、実際には旧約聖書どこにも載っていません。それなのに、マタイは「預言者たちを通して…語られた」と書いています。これには、説明が必要です。
マタイは、旧約聖書を研究して、そこに書かれていることの中で、救い主の姿を彷彿とさせるものを探したのだと思います。その結果、このような表現になったと考えられます。
それで、後世の人々は、マタイの考えた救い主に関連する言葉を探しました。そして、まず考えられるみ言葉は、「ナジル人」という言葉です。これは士師記13章5節に出てきます。サムソンについてみ使いが語った言葉の中にあります。「見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいる時から、神に献げられたナジル人だから。」
このナジル人とは、神に献げられた生涯を送る人で、主に聖別され、主に対して聖なる人です。ナザレとナジルは少し違いますが、マタイは少しのズレの中に、神様のお働きを見ていたのでしょう。
次に考えられたのは、イザヤ書11章1節の中にある言葉です。そこに「若枝」という言葉が出てきます。根株から出てくる若枝です。これは、切り倒された木の根から生えてきた枝のことです。これには、軽蔑の意味が入っています。そして、その軽蔑は、ナザレの人たちにも向けられていました。ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と皮肉っぽい言葉を語っています(ヨハネ1:46)。ある人は、ナザレ人と言われることは、「ナザレ野郎」とか「ナザレの奴」という意味があると語っています。
救い主が「ナザレ人と呼ばれる」とは、この二つのイメージを合わせたもののようです。イエス様は、神に献げられた生涯を送られました。また、私たちの罪のために十字架につけられるほど、人々から蔑まれました。十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていました(ヨハネ19:19)。
私たちも、イエス様のように、神に献げきった人生を歩み、どんなに蔑まれても愛を貫く人生を歩み続けるものでありたい、と思います。イエス様の足跡を踏んで生きることは、尊いことです。