聖日礼拝メモ 5月3日

聖書 マタイの福音書2章1−18節

 この箇所も、よくクリスマスに開かれることです。それで、ここから、三つの事をお話しします。

 まず、博士たちの礼拝についてです。

 博士たちは三人だと言われます。これは、贈り物が三つだったから、三人だったのだろうと推測したのです(ある人たちは、12人だったと考えています)。

 「彼方の国より」というクリスマスの賛美歌には、「私たち、オリエントの三人の王がやって来ました」と言う歌詞になっています。博士が王様になっています。これはどうしてでしょうか。これには、旧約聖書が関係しています。詩篇やイザヤ書などには、救い主のもとに王たちが贈り物を持ってやって来ると歌われています。そういう背景がありますので、この博士たちが王たちになっているのです。伝説ですと、この三人の名前は、ガスパール、メルキオール、バルタザールとなっています。いずれにしても、本当のところはわかりません。ただ三人の学のある人たちがやって来たこと、そして幼な子を礼拝したことは確かでしょう。

 この18節の中に、対照的なことが三つある、と言われます。

  • 権力者ヘロデと、幼な子イエス様の対照です。二人の王のなんと違うことでしょうか。残虐なヘロデと平和の君イエス様です。
  • 聖書の知識を持っている律法学者、彼ら特権階級に属する人たちと、聖書の知識もほとんどない博士たちです。一方は知識を持っていても動こうとしない人たち、片方は知識はないけれども敬虔な礼拝者である人たち。
  • 生まれたばかりのイエス様を抹殺しようとするヘロデ王、幼な子にお会いできたことを喜んで家路につく博士たちです。

 次に、ヘロデの殺意について考えてみましょう。8節では、「行って、幼な子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言っています。ところが、13節では、御使いが「ヘロデがこの幼な子を捜し出して殺そうとしています」と伝えます。そして、16節では、「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた」とあります。ヘロデという王様は、議員を三百人も殺し、妻や子どもを何人も殺した残忍な王です。ベツレヘムの殺された子どもの数は、二十人か三十人くらいだったと言われます。それでも残忍なことに変わりありません。

 最近、旧約聖書のエステル記を読みました。ハマンという大臣が、ユダヤ人を皆殺しにしようとした物語です。しかし、それは失敗しました。どうして、ユダヤ人はこのように憎まれ、抹殺されようとするのでしょうか。それは、アブラハムへの主の約束のためです。救い主がユダヤ人から生まれることを知って、一番阻止しようとしたのは、ハマンの背後にいた悪魔です。悪魔は、生まれた幼な子イエス様を亡き者にしようと、ヘロデの心に働きかけていたのです。

 イエス様は殺されそうになりましたが、エジプトに逃れて生き延びています。同じように、殺されそうになって生き延びたモーセを思い起こします。「わたしはエジプトからわたしの子を呼び出した」という言葉が記されています。これは、ホセア書11章の言葉の引用です。出エジプトの出来事をイエス様のエジプト避難の背後にある摂理として書いています。

 さて、最後に、「ユダヤ人の王として生まれた」救い主イエス様について考えてみましょう。このマタイの福音書には、「王」にまつわる譬え話がいくつかあります。そして、27章にはピラトの前での裁判が記され、その中でも、「あなたはユダヤ人の王なのか」と問われています。十字架の上の罪状書きには、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました。28章の大宣教命令には、「わたしには、天においても地においても、すべての権威が与えられています」とあります。これは、王の権威です。

 譬え話の中で、一つ見ておきたいものがあります。25章の羊とやぎのたとえです。初めに「人の子」とご自分のことを語っていたのに、すぐに「王」と言い換えています。そして、それは最後まで続きます。そして、この例えは、最後の審判を表しています。羊とやぎは、イエス様に対してどう対応したかを問われます。それも、貧しい者、苦しむ者の味方だったか、無視したかが問われます。彼らの最後は、対照的です。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい」(35節)。そして、「のろわれた者ども、わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ」(41節)。

 永遠の刑罰か永遠のいのちか、決まるのです。ユダヤ人の王とは、このような王を指す言葉なのです。私たちの人生は、羊かやぎかを決定する時です。ユダヤ人の王、王の王、主の主であるお方の前に、心から礼拝をささげましょう。

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