聖日礼拝メモ 4月5日
聖書 マタイの福音書28章1−20節
イースター、おめでとう。
今朝は、マタイの福音書28章を読んでいただきました。この記事の前に、十字架の上で苦しまれたイエス様の言葉が記されていました。「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という叫びは、父なる神様に見捨てられた苦しみを表しています。それで、イエス様が終わり、救い主でないと勘違いする人がいます。とんでもないことです。イエス様は、私たちの身代わりになっているのです。私たちの罪が、イエス様を見捨てさせていたのです。そして、その贖いが完成したことを表すのが、主イエス様の復活なのです。ですから、イエス様が見捨てられたことは、重大なことなのです。
さて、28章は、「週の初めの日」と書いています。つまり、日曜日です。その早朝に、二人のマリアが墓に行きました。イエス様のお体に香油を塗るためです。この人たちは、生きておられるイエス様について行った人たちです。どんなにイエス様を愛していたことでしょうか。死んでからも、そのそばにいたいと願っていました。
ただ、一つ問題がありました。それは、墓の入り口にある大きな石の扉です。これは、男の人が二、三人で動かすほどのものです。…二人が進むうちに、地震がありました。墓についてみると、石が動いて、入り口が空いています。そして、光り輝く御使いが現れ、二人に語りかけます。
27章の最後のところ、番兵が墓を守るという記事があります。この御使いを見て、彼らは「死人のように」なったのでした。驚いて腰が抜けたのでしょうか。
御使いの語りかけも、彼らは聞いたことでしょう。マリアたちは、メッセージを託されたのです。「イエスは死人の中からよみがえられました」ということです。それを弟子たちに伝えるために、走って行きました。彼女たちは、まだよみがえったイエス様にあっていません。でも、御使いの言葉を信じて、進んだのです。その途中で、イエス様が現れます。思わず、彼女たちは、イエス様の足を抱き、礼拝をします。イエス様が生きておられ、ご自分から現れてくださいました。
イエス様は、「おはよう」と言われたと訳されています。下の注に「喜びがあるように」とあります。マリアたちに喜びが湧いたのです。イースターは喜びの祭りだと、言った人があります。彼女たちは、どんなに嬉しかったことでしょう。このイエス様が今も生きて、働いておられるのです。感謝です。
さて、番兵たちは、祭司長たちに報告しました。彼らは、「起こったことすべて」を話したのです。地震のこと、石が動いたこと、御使いのこと、その言葉、マリアたちのこと、そして、イエスのお体がなかったことです。自分たちが「死人のように」なったことも話したでしょうか。祭司長は、長老と相談して、彼らに金を渡し、言い訳を教え込みます。「弟子たちが夜やって来て、眠っている間にイエスを盗んで行った」と言いなさいというのです。番兵は昼間も夜も、番をしていなければならないのに、眠っていたら、役に立たないのです。それを持ち出して、さらに多額の金を与えたとは、この人たち、祭司長たちは、どうなっているのでしょう。
最後の段落では、ガリラヤにおいて、弟子たちがイエス様にお会いした記事になっています。この時の言葉は、大宣教命令と言われます。まず、権威に触れています。天においても地においても、すべての権威がイエス様に与えられています。これは、次の命令に従うための力が与えられることを表しています。
命令の内容は、「行くこと」と「弟子とすること」です。
行くこと(GO)は、福音(Gospel)にふさわしい事です。このことは、私たちが遣わされていることを自覚して生きる必要を示しています。私たちの生活の場で、福音に生きることが宣教となります。
弟子とは、学ぶ人のことです。イエス様を学ぶのです。イエス様は言われました。「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」と(マタイ11:29)。イエス様がどういう方か、イエス様と交わりながら、知っていくのです。知ったことを自分で生きていくのです。イエス様とのコミュニケーションが大事です。話しかけてください。うれしいこと、悲しいこと、困ったこと、喜んでいること、何でも、イエス様に話してください。イエス様の生き方、そして死について、考え、学んでいきましょう。
そのように生きていく時、イエス様はいつも、世の終わりまでともにいてくださいます。もっともっとイエス様を学んでいきましょう。