聖日礼拝メモ 3月15日
聖書 ピリピ人への手紙4章15−20節
先週は、主に喜ばれることの始まりについて共に考えました。信仰についてです。ヘブル人への手紙11章6節にある、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」のお言葉を出発点にして、どのような信仰が考えられているかを、聖書から学びました。
今朝は、すでに救われた者の姿として、神に喜ばれることを中心に考えます。それで、ピリピ人への手紙4章を読んでいただきました。
このピリピ人への手紙には、喜ぶとか喜びという言葉が十回以上出て来ます。この手紙が書かれたのが、牢獄であったことを考えると、パウロ自身の証しでもあると理解出来ます。
この部分では、ピリピ教会からの贈り物を感謝しています。ほかの教会がしなかったことで、ピリピの教会は感謝と思いやりの表れとして贈り物をしたと理解できます。パウロは、その贈り物を「受けて」と言っています。これは、領収しましたという、経済的な用語と言われています。非常に現実的です。
しかし、その直後で、「芳ばしい香り」と言っています。これは、神殿の香壇から立ち上る香りを連想させる言葉です。また、「ささげ物」と書かれています。これも、神殿の礼拝を連想させます。つまり、現実的に「受け取りました」と言ったパウロは、それを神に向かう奉仕として、ピリピの教会の人たちの心を上に向けさせているのです。このことは、私たちの奉仕を人間的な現実だけでなく、神様が喜んでくださるものとして行うものであることを示しています。掃除当番をするときも、月々の献金をするときも、生ける神様に捧げる奉仕である事を自覚しているでしょうか。それが大切なことです。
さて、聖書では、この他にも、神様が喜んでくださることがいくつも記されています。いつくか取り上げてみましょう。
ヘブル人への手紙13章16節を見てみましょう。「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」これは、愛に根ざした交わりを、主が喜んでくださることを教えてくれます。
シーモンズ師は、「主を仰ぐ朝」の中で、詩篇51篇6節をあげて、次のように語っています。「詩篇作者は、神様は『心のうちの真実』を喜ばれると歌いました。心のうちの真実は、言い訳、ごまかし、見せかけ、人を煙に巻くように話し方、裏表のある姿勢を許しません。それは、自分の内側に、正直さ、真実さ、謙虚さ、嘘のなさなどの正しい心をもっているということ、外側に見えるものと内側の現実が同じであると言うこと、口から発することばを内側の動機が一致しているということです。…『この人たちは現実的だ。どこに立っているか、分かる。だから、信頼がおける』と言っていただくことができるということです。」
この詩篇のことば以外にも、詩篇37編23節、箴言11章20節、箴言12章22節などにも、主に喜ばれる道が示されています。
少し違った角度から、神様の喜ばれることを記しているのが、エゼキエル書です。その18章32節では、「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない——神である主のことばーー。だから立ち返って、生きよ」とあります。さらに、33章11節では、「わたしは生きている——神である主のことばーー。わたしは、決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか」とあります。「悪しき者」とは私たちのことであり、神様の切ないほどの愛の招きのことばです。神様は、私たちが神様とともに生きることを願っておられるのです。そうでなければ、死、つまり滅びだからです。
ミカ書6章7-8節では、次のように訴えられています。「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいのために、胎の実を献げるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか。主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」天地を創造した神様の愛と力に信頼し、主にすがって生きることを、求められているのです。
ルカの福音書15章には、いなくなった羊を見つけた羊飼いの喜びのことばが記されています。「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけまいしたから」とあります(6節)。また無くしてしまった銀貨を見つけた女の人のことばも記されています。「一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから」(9節)。羊飼いはイエス様を表すと言われます。女の人は聖霊を表すと言われます。神様は、私たちが悔い改めて、十字架に信頼して生きることを喜ばれるのです。
最後に、シーモンズのことばを紹介します。「神様は、贖い、和解、癒やしを実現しようという熱い思いをもっておられます。神様のみこころは、地球上のすべての人が神様の愛とキリストの十字架による贖いのみわざを知ることです。神様の計画の中で、一人ひとりに役割があると言うことです。神様のビジョンと使命をともに担い、世界宣教と社会改革の仕事においてパートナーとなるとき、私たちは神様を喜ばせることができます。」私たちがイエス様の十字架の贖いによって救われ、神様とともに歩めることを喜ぶことと、神様が私たちの歩みを喜んでくださること、——御国は喜びの世界だと言えます。