聖日礼拝メモ 2月15日

聖書 列王記第一 19章1−19節

 エリヤという人物は、豊穣の神というバアル信仰と戦った人です。アハブ王の后イゼベルが持ち込んだ信仰です。イスラエル人は、この分かりやすい信仰に引かれました。彼らの預言者たちは、バアル神を拝むように誘ったのです。エリヤは、これに対抗しなければなりませんでした。民のバアル神への傾倒が、主からの干ばつを起こさせたのです。

 まことの神である主から離れた民を立ち戻らせるために、エリヤはカルメル山で、バアルの預言者たちと対峙したのです。そして、民を呼び集め、皆の前でバアルと主がどちらの神がまことの神かを決められるように、神の指示のもとで計画したのです。

 バアルの預言者たち450人と、ただ一人エリヤは、向かい合いました。それぞれ祭壇にいけにえを置き、「火をもって答える神」こそまことの神であるという挑戦をしたのです。

 バアルの預言者たちは、祈って、踊って、からだを傷つけて、火を呼び下そうとしましたが、いっこうに答えられません。朝から昼、そして午後3時まで、彼らの祈りは聞かれませんでした。

 次はエリヤの番です。彼は、短く祈りました。「あなたのおことばによって」なしていることを訴え、民の回心を願ったのです。すると、天からの火が下りました。民は、「主こそ神です。主こそ神です」と礼拝しました。

 エリヤは、モーセの律法にある(申命記18:20)ように、バアルの預言者たちを殺したのです。これは、彼一人でしたとは思えません。真実な祭司たちも加わったのではないかと思います。450人の預言者を捕まえて、キション川まで降りていって殺したのです。民の信仰がよみがえってきたことを認めたゆえに出来たことでした。

 エリヤはもう一度カルメル山に登って、祈りました。そして、王には雨が降るから早く帰るように、伝えました。「手ほどの雲」が見えたとき、エリヤは王の馬車の前をイズレエルの町まで走ったのです(およそ20㎞あります)。

 ところが、イゼベルは復讐を誓います。それを知ったエリヤは、いのちの危険を感じ、逃げ出します。南のベエル・シェバに行き、エニシダの木の下で「自分の死を願って」祈ります。

 これはどうしたことだったのでしょうか。エリヤは疲労困憊していたのです。450人の預言者との対決、アハブ王の前を20㎞も走ったこと――それは、きついことでした。そこにイゼベルの脅迫があったのです。「主よ、もう十分です」と言ったエリヤの気持ちが分かります。

 しかし、主は、エリヤをそのままにはしておきませんでした。回復の手段がありました。まず、睡眠です。「エニシダの木の下で横になって眠っている」エリヤの姿が描かれています(19:5)。睡眠は体力だけでなく、精神的にも回復のために必要です。

 さらに、御使いが持ってきた「焼け石で焼いたパン菓子」と「水の入った壺」が与えられました。滋養があり、消化の良いものが必要でした。それを御使いが持ってきてくれたのです。水も必要です。

 エリヤを立ち上がらせるために必要な三つ目のものは、主のことばです。「エリヤよ、ここで何をしているのか」というおことばに、エリヤは自分を取り戻していきます。彼は、熱心でした。しかし、孤独になっていたのです。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。…ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと願っています」(10節、14節)と言いながら、エリヤの心は落ち着いていきます。そこで、主はエリヤに新しい使命を与えます。

 三人の人に油を注ぐことでした。その中に、後継者となるエリシャの名前もあります。つまり、エリヤの働きは十分果たせたことを、主は伝えたかったのです。

 この後、エリヤは、つむじ風に乗って天に引き上げられます。死を通らずに天に上げられたのです。

 また、イエス様の姿変わりの山の上に、モーセとともに現れたのはエリヤでした。彼らは、イエス様がエルサレムでどのように死なれるかを話し合ったのです。エリヤは、イスラエルの民の不信仰に泣かされましたから、イエス様の十字架の贖いを知って喜んだことでしょう。

 現在、私たちの国には何万人ものクリスチャンがいます。エリヤは七千人の信仰者の存在を聞かされて、慰められました。私たちも、決して孤独でなく、天の大勢のクリスチャン、地上のクリスチャンを知って、信仰に励もうではありませんか。

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