聖日礼拝メモ 2月8日
聖書 民数記11章1−15節
私たちは様々な困難を通りますが、主はいろいろな方法で助けてくださいます。今朝は、モーセを取り上げます。
モーセと言えば、旧約聖書の中でも傑出した人物として知られています。シナイ山で主にお会いし、イスラエル人をエジプトから救出した人物ですし、律法を賦与された人でもあります。旧約聖書の初めの五つの書は、モーセの五書と言われます。イスラエルの歴史にとって無くてならない人です。
彼の人生は波瀾万丈と言えるものでした。レビ家の両親から産まれ、三ヶ月でナイル川に捨てられ、王女に拾われ、実母に乳母として養われ、王宮の訓練と学びを受けて育ちました。
40歳の時に、イスラエル人を救うためにエジプト人を殺してしまい、ファラオに追われてミディアンの地に逃れ、祭司の家に逃れ場を見つけたのでした。祭司の娘と結婚し、二児の父親になりました。彼は羊を飼いながら、失意の40年を過ごしたのです。
ところが80歳の時、シナイ山の麓で不思議な火を見て、神にお会いし、イスラエル人をエジプトから導き出して、カナンの地に連れて行く使命を受けたのでした。
エジプトで10の災いをもたらし、紅海を渡り、シナイ山の麓で、イスラエル人を神に会わせました。十戒をはじめ、様々な律法をいただき、イスラエル人に伝えました。幕屋を建造し、完成したときには、天からの栄光が幕屋に満ちたのです。それをイスラエル人は見たのです。
そして、旅が始まりました。神様は、彼らの旅のためにマナをお与えになりました。そこで、不平が出るのです。エジプトでの生活から離れたばかりで、旅の目的も考えないで「肉が食べたい」と文句を言いだしたのです。モーセは悲しくなり、神様に訴えます。その声は悲鳴のようです。
「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。」モーセの心は重荷に耐えられなくなってしまったのです。
「私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、私が彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。」モーセが疲れてしまったことが現れています。
さらに、「私をこのように扱われるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」こんなに混乱しているモーセは、あまり見られません。よっぽど疲れがたまっていたのでしょう。
エジプトで十の災いをもたらしたときのモーセとは違います。モーセは歯がゆかったことでしょう。民が旅の意味を分かっていなかったのですから。
神様は肉を与えると約束してくださったときも、モーセは信じられませんでしたから、疑問を神様にぶつけています(21-22節)。「海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか」と訴えています。モーセは海の広さを知らなかったのでしょうか。それとも、ただ比喩として言っているのでしょうか。
神様は応えました。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる」と。そうです。神様のみことばには力があるのです。ザカリヤは御使いガブリエルに言われました。「その時が来れば実現する私のことば」と(ルカ1:20)。エリサベツはマリアに言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は,幸いです」と(ルカ1:46)。マリアは言いました。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)。モーセを助けたのは、神のことばだったのです。彼は回復していきました。
一人で重圧を担えないことを訴えたのに対して、70人の長老たちがモーセを補佐します。うずらは、たくさん飛んできました。モーセは神様の御力を改めて知ったのでした。それでも、彼が神様に訴えたことは良かったと思います。訴える相手がないために、沈んでしまう人がありますから。その意味でも、モーセは愛されているのです。
私たちも、みことばに耳を傾けて、神様のみこころを知って歩みましょう。