聖日礼拝メモ 1月18日
聖書 ヨハネの福音書15章1−11節
永遠のいのちを与えられた者に備えられる恵みは、いろいろあります。霊的な目が開かれることもその一つです。「わたしの目を開いてください。わたしが目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに」と、詩人は歌いました(詩篇119:18)。
今朝は、主の恵みを知ることがどんなに幸いなことか、考えてみましょう。
イエス様は、このヨハネの福音書の15章で、ご自身を「まことのぶどうの木」と言っておられます。そして、私たちはその枝として生きることを教えておられます。
私たちがイエス様にとどまることにより、さまざまな恵みにあずかることができます。それを示すのが、「イエスにあって」とか、「キリストにあって」、「御子にあって」という言葉です。いくつか見てみましょう。
エペソ人への手紙1章7節。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」恵みとあるように、罪の赦しは、赦しを受ける資格のない者に与えられたのです。イエスにとどまる者は、この恵みをいただけるのです。
ガラテヤ人への手紙3章26節。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」滅びの子だった者が、神の子どもとして受け入れられるのです。そして、「子どもであるなら、相続人でもあります」とあります(ローマ8:12)。何を相続するのですか。神の国を相続するのです。そして、それは「共同相続人」(ローマ8:17)としての相続です。皆で相続するのです。
ヘブル人への手紙12章22-23節では、「私たちが近づいているのは、」…「天に登録されている長子たちの教会」とあります。この長子とはイエス様の事ですが、神の子どもとされた人たちは、そのイエス様にあって、長子として扱われるのです。何という幸いでしょう。
さて、ヨハネの福音書15章に戻ります。ここには、イエス様にとどまる者について書かれています。「とどまる」は、別の訳では「つながる」となっていますが、芥川龍之介の「くもの糸」のような細いつながりでなはありません。とどまるとは、そこに住むことです。イエス様の中に住むのです。それは、7節を見ると、イエス様のことばにとどまることでもあると分かります。その時、祈りは答えられるのです。
さらに8節では、父なる神様の栄光を現すことと結ばれています。イエス様にとどまり、実を結ぶことで、父なる神様がほめられるのです。9節には、愛の関係が記されています。クリスマスに、父なる神様が私たちのために御子を送ってくださったことを学びました。イエス様も私たちを愛して、探しだし、救いに導いてくださいました。そのためには、苦しい十字架を忍ばれました。愛の神様が、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われているのです。ありがたいことです。
イエス様にとどまって、実を結ぶというのは、よく言われるように、聖霊の実を結ぶことにつながります。祈りの実を結ぶことも、関係しています。みこころを行うことで、善行を行うことにもつながります。
その善行ですが、無理して行う事ではありません。主が心をきよくしてくださり、愛と善意で行うものです。それゆえ、どんなに善行をしても、誇ることにはなりません。主の恵みなのですから。
私たちは苦しいとき、悩みの時も、イエス様にとどまり、みことばに生きていけます。イエス様への信頼こそ、イエス様にとどまる秘訣です。パウロは、「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自身を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」と告白しています(ガラテヤ2:19-20)。これこそ、イエス様にとどまっている人の姿です。