聖日礼拝メモ 1月11日
聖書 列王記第二 6章8−19節
イエス様のことばには、時に、当たり前に聞こえることばがありました。しかし、それが、ある人にとっては、心に残るのでした。「聞く耳のある人は聞きなさい」ということばも、その一つです。みんなでイエス様のことばを聞いていたのに、「聞く耳のある人」と言われたのです。と言うことは、イエス様のことばには、二重の意味、三重の意味があるということなのでしょう。単純でありながら、深い意味を持つことばがあるということです。
耳ではなく、目について考えてみると、この列王記第二の記事を思い起こしました。ここには、エリシャと召使いの話しが出て来ます。
アラムの王がゲリラを仕掛けようとして、拠点を築こうとしたとき、そこに、イスラエルの兵がいて、築けなかったのです。それが、一度や二度ではなかったので、アラムの王は、スパイがいるのではないかと疑ったのです。しかし、一人の家来のことばに、王は解決の糸口を見出したと思って、軍勢を遣わしたのです。それが、ドタンにいる預言者エリシャを捕らえるためでした。
ある朝、エリシャの召使いが起きて、外を見ると、アラムの軍勢が町を取り囲んでいました。彼は、恐れをなしてエリシャに知らせました。すると、エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言ったのです。そして、エリシャは祈りました。「主よ、どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と。すると、召使いの目が開かれ、アラムの軍勢よりも多くの天の御使いたちが、「火の馬と戦車」に乗って満ちている姿を見たのです。
この後、エリシャはアラムの人たちの目を見えなくしてくださいと祈り、その見えなくなった人たちをサマリヤの町まで連れて行きます。そして、ご馳走をして、国に帰らせています(このことと、ローマ12:20のお言葉は関係しているようです)。
この出来事は、大変不思議な出来事ですが、目が開かれるとか、見えなくなるという事が起こったことが記されているのです。エリシャは主なる神様に仕える預言者です。神様がともにいてくださり、守ってくださる方であると、知っていました。ですから、アラムの軍勢が押し寄せても、御使いを送ってくださる主を信じていました。エリシャは、信仰を持ってみ使いたちの助けを信じていました。見ないうちに、その数が「多い」と言えるほどに彼は確信していました。信仰の目です。
私たちにとっては、信仰の目をもって見ることはできるでしょうか。
たとえば、コリント人への手紙第二の4章を見ますと、「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」とあります(7節)。この宝とはなんでしょうか。それは、4節や6節にある神の恵みのことです。私たちの肉体は土の器です。しかし、主イエスの救いをいただいた時、神の輝きをいただき、キリストを知る恵みをいただき、父なる神様の愛を知らされたのです。それは、恵みの光であり、天からの輝きのもたらしたものです。目に見えなくても、知ることができたのは、心の目が開かれたからです。何と幸いなことでしょう。
私たちは土の器です。時にはひびが入り、苦しみます。その時、この、神様がくださる宝をいただいていることに目を向け、平安と満足をいただけるのです。エリシャのように、信仰の目をもって見ていきましょう。神様は、愛の方です。どんなに私たちをいつくしんでくださっていることでしょうか。感謝します。