聖日礼拝メモ 1月1日
聖書 ヨハネの福音書3章16−21節
いのちは不思議なものです。物質的ないのちも不思議ですが、霊のいのちはさらに不思議です。イエスさまは、言われました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)霊のいのちは風のように見えないのですが、音がしたり、ものが動いたりして、分かるのです。それでもつかみ所がありません。しかし、イエス様のことばの中には、その霊的いのちが満ちています。「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」と言われました(ヨハネ6:63)。
ヨハネの福音書17章2節、3節をご覧ください。特に、3節には、永遠のいのちがどういうものかを語っています。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」イエス様を知ることによって、父なる神様を知ることができます。この「知る」ということばは、単に知識として知ることをこえて、経験的に知ることです。「イエス様が助けてくださった」と分かった時、イエス様を経験しているのです。そして、イエス様との交わりを楽しむのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この16節は、ゴールデン・テキストと言われます。毎日、繰り返して思い巡らすことが勧められています。
ここには、神様がご自分の造られた世界を取り戻すために、懸命になっている姿が表されています。私たち人間との交わりも回復したいのです。そのために、御子をくださったと書かれています。それも、御子は、十字架の死にまでつけられなければならないのです。それによって、回復ができるからです。このことを、ある人は、「一所懸命な神の愛」と表現しました。「一所」とは、神様が造られたこの世界です(ですから、ここでは一生懸命ではなく、一所懸命なのです)。
どうして、神様はそれほどに真剣にいのちをかけて回復しようとしたのでしょうか。それを、この16節は教えてくれます。ここに、「一人として滅びることなく」とあります。この世界は滅びに向かって進んでいます。それに呑み込まれないように、神様は一所懸命なのです。
1章11節では、「ご自分の民はこの方(イエス様)を受け入れなかった」とあります。その人たちを滅びに入れたくないのが神様の愛です。
滅びるとは、あのルカの福音書15章に描かれている姿です。百匹の羊の中の一匹がいなくなって、羊飼いは探しに行きました。見つかったとき、近所の人たちにその喜びを分かち合っています。10枚の銀貨のうち、一枚がなくなって、捜し回った女の人の話が続きます。そして、三つ目の話しは、二人の息子の話です。放蕩息子と気むずかしい兄息子の話です。父親は、二人をそれぞれに愛していることが語られました。いなくなった羊、見つからなくなった銀貨、父の心を知らない息子たち——これが滅びの姿です。滅びるとは、造り主である神様から離れ、いなくなっている状態です。神様の寂しさ、悲しさが、滅びを阻止しようと動いたのです。
3章17節には、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。そうなのです。しかし、人間の心は頑なです。ある人は、娘さんから「あなたは完全な防水加工の人間ね」と言われました。これは人間の心に周りの人の愛が染みこまない、あるいはその人の愛がしみ出ないことを言っているのです。そして、神様に対しても、完全な防水加工の心を持っているのではないでしょうか。神様は、その頑なな心をこじ開けてでも、救いたいのです。そのために、御子を十字架にまで遣わされたのです。
もし、心を開いて、イエス様を受け入れるなら、永遠のいのちが心に入って来るのです。そして、神様との交わりが回復し、暖かい関係が生まれ、楽しい交わりが続くことができるのです。お与えくださったイエス様を信じて、永遠のいのちを受けようではありませんか。そして、豊かないのちを感謝する一年としましょう