聖日礼拝メモ 12月14日

聖書 ルカの福音書2章8−14節

 クリスマスに願い事をするのは、子どもだけでしょうか。大人も様々な願いをもって生きています。それがかなうかどうかは、神様だけが知っておられることです。それでは、神様は何を願っているのでしょうか。羊飼いのもとに来た御使いのことばにそれは現れています。今朝はそのことを考えてみましょう。

 御使いのことばは、彼の願いを表したものではありません。それは、神様の願いを伝えるために遣わされたのだからです。その意味で、彼らのことばを聞き流してはいけません。

 10節から12節には、一人の御使いのことばが記され、14節にはおびただしい数の御使いの軍勢の賛美が記されています。

 まず、一人の御使いのことばの中にある、主なる神様の願いを聞くことにしましょう。彼は、「大いなる喜び」を伝えに来たと言っています。その喜びの中身は「救い主」です。この方は「主キリスト」と呼ばれています。この呼び名はここだけに出て来るもので、救い主の神性を表しています。

 この喜びについて、ペテロは言っています。「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」と(Ⅰペテロ1:8)。それも「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じて」いる喜びだと。そんな喜びをもたらす救い主です。幸いなことです。

 次に、おびただしい数の天の軍勢が賛美した歌を取り上げます。

 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」とあります(14節)。神の栄光を賛美するのは、御使いたちにとっては普通のことでした。いつも、神を賛美していました。しかし、「平和」が人に与えられると、賛美しました。救い主がおいでになると、神のみこころが表され、そのみこころに従う人たちには平和が与えられるというのです。その平和とはどのようなものでしょうか。

 まず、平和は神様のもの、神様こそ平和そのものです。その神様を心にお迎えすると、その人も平和を与えられるのです。それを救いと言います。

 ある人は、その救いは、原型への回復であると言います。原型とは、エデンの園のアダムの状態です。罪のない状態です。その人は、「アダムの輝きが回復する」とも言っています。これも平和の一面です。

 平和とは、仲違いをしないだけでなく、愛し合う関係です。愛し合うとは、好き嫌いの感情とは別の次元の愛です。敵をも愛する愛の交わりです。

 別の面から見ますと、平和とは平穏、幸福と結びついています。イエス様やパウロのことばを思い出します。

 「わたしはあなたがたに平安を残します」と言われたイエス様の「平安」は、先の「平和」と同じアイレーネーというギリシア語です。このことばは、ヘブル語のシャロームの訳として使われました。さらに、続きを読みましょう。「わたしの平安を与えます。わたしは世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」(ヨハネ14:27)。イエス様が持っておられる平安の心、平穏な心をくださるのです。イエス様の生涯では、終わりに近づくにしたがって、反対や反抗が増えました。そして、捕らえられ、裁判にかけられました。そのような中で、いつも平穏な心でいたイエス様でした。私たちも様々な問題、課題を抱えながら過ごしていますが、このイエス様の平安をいただけるのですから感謝です。

 パウロのことばでは、「すべての理解を超えた神の平安」です(ピリピ4:7)。アライアンス宣教団を創設したシンプソンは、「私たちの生来の騒がしさやいらだたしさは静められる」と語り、「キリストはあなたがたの心の奥の部屋に来られて、外には騒ぎと苦難があっても、『あなたがたがわたしあって平安を得るためです』とささやかれる」と語っています。

 救い主が、みこころにかなう人たちにお与え下さる平和、そして平安、何とすばらしいことでしょうか。神様はこのすばらしい救い主をお遣わしになったのです。この方に、すがって生きていきましょう。そして、平安を経験させていただきましょう。

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