聖日礼拝メモ 12月21日
聖書 マタイの福音書1章18−25節
クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を記念するお祭りです。誕生日ではありません。
イエス・キリストがお生まれになるためには、母親が必要です。そこで選ばれたのはマリアでした。また、その子を守り、養う父親役の人も必要でした。ヨセフが選ばれました。彼はイエス様の父親ではありませんでしたが、育ての親として選ばれたのです。
イエス様が誕生したことを、このようにお祝いするのはなぜでしょうか。それは、イエス様に与えられた数々の名前がヒントになります。この福音書にもいくつも、イエス様の呼び名が記されています。「ユダヤ人の王」(2:2)、ナザレ人(2:23)、人の子(8:20)、神の子(8:29)、「わたしの愛する子」(17:5)、良い種を蒔く人(13:37)、大工の息子(13:55)、預言者(21:11)、正しい人(27:19)、などです。その中で、この23節にある「インマヌエル」こそ、イエス様の誕生を祝うに値する呼び名です。
インマヌエルとは、神が私たちとともにおられる、という意味です。イエス様がお話しになったことも、なされたみわざも、みな神様のみこころを示すものです。
たとえば、有名な山上の説教は、イエス様の教えの中でも特に有名ですが、私たちの信仰生活を描く神様のみこころを示しています。そのほか、10章の弟子の派遣、13章のたとえ話、18章の弟子たちのあり方、24章から25章にある世の終わりの教えなどがあります。これらの教えは、神のみこころを示しています。イエス様のおられるところには、目に見えなくても神ご自身もおられるのです。
そのことをさらにあらわにしたのが、イエス様のなさる奇跡です。8章から9章にまたがっていくつもの奇跡が記されています。見てみましょう。
ツァラアトに冒された人の癒やしの記事は、イエス様の優しさが際立って表されています。なぜなら、ツァラアトに冒された人は、汚れているとされていたのです。部落の外で暮らさなければならない人たちでした。その人に手を伸ばして触った上で、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われたのです。人々から隔離されて生きて来たこの人にとって、イエス様の手の感触は一生忘れられないものとなったことでしょう。そして、それは神様の恵みの御手でもありました。
次には百人隊長のしもべの癒やし、そしてペテロの姑の癒やしが書かれています。さらに嵐を鎮め、悪霊につかれたガダラ人の癒やしと続きます。そこには、イエス様の愛と御力が現されていますが、同時に、神様がおられることを証明しています。
9章には、中風の人の癒やし、そして、取税人マタイの召しと宴会の記事があります。会堂司の娘を生き返らせた恵み、長血の女を癒やした記事、盲人の癒やし、口のきけない人の癒やしなどが記されています。どこをとっても、主イエス様がおられるところには、父なる神様も一緒におられるのです。イエス様をとおして、神様が見えてくるのです。まさにインマヌエルの主なのです。ですから、クリスマスをお祝いするのです。
神様が見えなくなっていた人間世界に,イエス様がお生まれになられて、神様とはこういう方だと分かるようになったのです。こんなすばらしいことが起こったのですから、お祝いしないわけに行かないのです。それが、クリスマスです。ハレルヤ。