聖日礼拝メモ 11月30日

聖書 創世記49章1−27節

 待降節()は、クリスマス前の4週間を数える聖日から始まります。辞書には「祈りと断食のとき」と書かれています。それは、洗礼に備える期間でもあります。今朝は、族長ヤコブの祈りに目を留めてみましょう。

 創世記は、11章までは創造に関する記事で、12章からは、四人の人物の物語りです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフです。この49章は、ヤコブが12人の子どもたちに語る遺言のようなものです。彼らの性格をとらえ、将来について語っています。ルベンから始まってベニヤミンまでです。

 その預言的なことばの真ん中に、ヤコブの「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」という祈りが記されています。ヤコブは、何を求めて救いを願ったのでしょうか。子どもたちへの言葉の中に、彼の心を動かされた課題がありました。

 ルベンは、長男の特権をいただいて良かったのですが、「ほかの者にまさることはない」(4節)と言われています。それは、彼が「父の床に上った」という不祥事のためです。彼は性欲をコントロールできなかったのです。性欲は神からの賜物ですが、コントロールをしなければならないのです。そこに救いが必要だったのです。

 次に語られるのは、シメオンとレビです。この二人には、怒り、憤りが問題でした。シェケムの町で、妹のディナのために怒りを燃やした二人は、町を襲って人々を殺したのです。

 パウロは、「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」と言っています(エペソ4:26)。箴言には、「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の霊を治める者は町を攻め取る者にまさる」(16:32)とか、「自分の霊を制することができない人は、城壁のない町、打ち破られた町」(25:28)とあり、さらに「人に賢明さがあれば、怒りを遅くする。その人の栄誉は、背きを見過ごすことにある」(19:11)とあります。シメオンとレビは、怒りを爆発させて、背きを見過ごすことができなかったのです。愛、「主よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエス様の愛が必要だったのです。

 ユダについては、リーダーとして描かれています。本来ならば、ルベン、シメオン、レビの順になるのですが、彼らは前記のような状態だったため、指導者としての地位を失い、ユダに指導者の地位が与えられています。ユダは「獅子」と言われています。黙示録5章5節には「ユダ族から出た獅子」であるイエス・キリストが勝利したことが記されています。

 ゼブルンは地理的なことが語られています。

 イッサカルはたくましさと、重荷で奴隷になるという二面が語られています。

 ダンについては、「蛇となれ」とあり、裏切りが示唆されています。これも問題です。信頼できなくなるからです。救いが必要です。

 ガドは、南の人たちからの襲撃があります。主の守りが必要です。

 アシェルの子孫院は繁栄が約束されています。肥沃な農業地帯でした。

 ナフタリは、「放たれた子鹿」と言われています。自由で独立心が強いイメージです。

 次のヨセフは、ユダのように長いことばが語られています。彼は長子としての二倍の祝福が語られています。

 最後にベニヤミンですが、彼は残忍な面と略奪という強引な面が表されています。ここにも救い主が必要です。

 10節の「ついには彼がシロに来て」とある文章は、翻訳がむずかしいところと言われています。欄外には「シロが来る」と別の訳が記されています。この預言は、救い主を表すと考えられています。これは、イザヤ書9章6節にあった「平和の君」に通じる名前です。また、それは、「世の罪を除く子羊」に通じます。ユダについては、獅子と羊の二面があることを覚えておきましょう。

 さて、ヤコブの祈りは答えられたのでしょうか。私たちは主イエス・キリストを私たちの救い主と信じ、仰いでいます。そして、ルベンやシメオンやレビの罪から解放されるのです。また裏切りや略奪を追いやることができるのです。実際、このような罪から解放された喜びが、クリスチャン一人ひとりから周りの人に伝わることが、主の願いです。主が、私たちの心を支配し、罪から解放し、自由と喜びをもって賛美する者として管います。ハレルヤ。

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