聖日礼拝メモ 10月5日
聖書 ヨハネの福音書5章41−52節
ヨハネの福音書6章には、五千人の給食の出来事が記されています。そして、この章はパンのことがテーマになっています。人々はイエス様を疑い始めています。しかし、本当のところはどうなのでしょうか。
「天から下って来た」(41節)というイエス様の言葉に戸惑っていたユダヤ人ですが、私たちにはルカの福音書やマタイの福音書にあるクリスマスの記事があります。聖霊によって身重になったマリアを、ヨセフは御使いの知らせで受け入れたのです。イエス様は天におられた神の御子なのです。
旧約聖書の箴言8章に、知恵のことが記されています。そこには、天地の創造のときに、父なる神様とともに働き、喜んだ「知恵」なる方の事が記されています。これは、御子イエス様の別の姿だったと言えます。
創世記の冒頭に、「初めに神が天と地を創造された」とあります。この短い言葉の中に、神の創造のすばらしさが証しされています。「初めに」とは、時間を創造したことですし、「天」は空間を、「地」は物質を創造されたと理解できます。創造された世界は、また終わりを迎える世界です。唯物論の考え方では、この世界は永遠で、最初も最後もないと言います。しかし、科学の世界では、この世界は始まりがあり、終わりもあると、考えられています。この世界の創造の時に、知恵であるイエス様が、「神の傍ら」にいて、「喜び、楽しんでいた」という箴言の語りかけはすばらしい言葉です(箴言8:30)。天地創造で働いていた御子が、「天から下って来た」と言われるのは、間違ったことではなく、真実の言葉なのです。
このような真理を伝える聖書は、不思議な本です。こうして、聖書を読み、聞くことができる私たちは幸せ者と言ってよいでしょう。
不信仰なユダヤ人に、イエス様は語りかけました。「父が引き寄せてくださらなければ」とあります(44節)。この聖書を読んでいる私たちは、正に父なる神様から引き寄せられているのです。
イエス様は、「わたしのもとに来る」と言われます(44節)。それは、イエス様を信じ、受け入れることです。そういう人を、イエス様は、「終わりの日によみがえらせる」と言われます。それは、復活のからだ、栄光のからだによみがえらせられることです。今の肉体は、あるピークを過ぎると弱っていきます。しかし、よみがえりのからだは、決して死なない、栄光に輝くからだです。「このパンを食べるなら、永遠に生きます」(51節)と語られたイエス様を信じる人は幸いです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」と言われています(47節)。天からのパンであるイエス様を信じることは、パンを食べると表現されています。信仰によって生きることです。
さらに、イエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と言われました(54節)。ここには、聖餐式のパンとぶどう液が示されています。聖餐式にあずかり、パンとぶどう液をいただく人は、永遠のいのちを持っていて、終わりの日に復活の恵みにあずかれるのです。何と幸いなことでしょうか。この地上のいのちで終わるのでなく、永遠の世界に生きるいのちを与えられているしるしが、聖餐式の意味です。尊いことです。よみがえりの日、イエス様は、大喜びで迎えてくださるでしょう。創造の日に喜ばれたイエス様は、復活の日も喜ばれる方です(ルカ15章を参照)。