聖日礼拝メモ 9月28日
聖書 ルカの福音書19章1−10節
今日も、救いについて、聖書から聴いていきましょう。
ザアカイという取税人の話しです。彼は、エリコの町に住んでいました。死海の北にある町で、地中海の水面より250㍍も低いのでした。エルサレムの人の別荘が作られていたりした所です。東西南北からの交易の町でした。そこで通行税などを徴収し、ローマ政府に納める仕事が取税人でした。これは請負仕事でしたので、納める分よりも多くを徴収し、自分の懐に収めることもできるのでした。ですから、取税人は金持ちになれます。しかし、自分たちの国の財をローマに持っていかれるので、取税人は嫌われ者でした。
そんなザアカイの耳に、カペナウムの取税人マタイがナザレのイエスの弟子になったといううわさが伝わります。どういうことなのだろう、と思い巡らすザアカイに、ナザレのイエスの様々な奇跡や教えが伝えられて来ます。彼は、自分で、そのイエスという人に会ってみたいと願うようになります。願ったりのタイミングで、イエスはエリコを通ってエルサレムに向かうという、うわさが流れてきます。
イエスの通る道すじは、群衆でいっぱいです。ザアカイが見に行ったとき、群衆のきらいな取税人のザアカイに冷たい態度をとりました。それに、彼は背が低かったのです。全然見えません。そこで、あきらめないザアカイは、走って行って、木に登ります。何とかしてイエスを見たい一心でした。
イエス様は、ザアカイのいる木の所で足を止め、上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけたのです。イエス様にしてみれば、木にまで登って会いたがるザアカイを放っておけなかったのでしょう。ザアカイは急いで降りて来て、自分の家に案内しました。周りの人は、イエス様が「罪人の家に」泊まるのを非難してつぶやいています。
ザアカイは、イエス様を家に迎えて、接待をしながら、いろいろな質問をしたのではないでしょうか。そして、その愛に触れ、「立ち上がって」決意を言い表します。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。」なんといざぎ良いことばでしょうか。それに対して、イエス様は答えます。
「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は失われた者を捜し出して救うために来たのです。」
このイエス様のことばにある三つの点を考えます。
まず、「救いがこの家に」と言われたことです。どうして「この人に」と言わなかったのでしょうか。日頃の生活の場である家で、ザアカイはどのような態度をとっていたのでしょうか。「喜んでイエスを迎えた」心が、家の中にあった冷たいものを温かいものに変えたからでしょう。
次に、「アブラハムの子なのですから」と言われた意味です。信仰の父アブラハムのように、ザアカイは、イエス様から声をかけられたとき、この方に信頼し、安心したのです。つまり、信仰が生きて来たのです。
最後に、「失われた者」とは、どういう人でしょうか。ルカの福音書15章は、三つのたとえが語られています。どれも、いなくなり、なくなったという状況から見出された幸いを語るたとえです。いなくなった羊、亡くなった銀貨、いなくなった息子の話です。愛の神の前からいなくなっている人、自分の居場所が分からない人、そして、父なる神様と心が通わなくなっている人――これが失われた人です。聖書ではこのような人を罪人(つみびと)と言います。
あなたは、父なる神様に心を寄せて生きていますか。もし、それができていなければ、イエス様は、あなたを捜しているのです。声をかけ、名前を呼んでいるのです。
イエス様は、天からそのような人を捜して救うために来られたのです。そして、十字架につけられて死に、三日目に復活して、天に帰りました。その十字架の死によって、罪の状態から救い出されるのです。(モーセが銅の蛇を竿で皆に見るように言ったことを思い出します。蛇に噛まれた人が、竿の上の蛇を見た人は癒やされました。同じように、十字架を見上げて、自分の罪をそこに見るなら、救われます。)
ザアカイが喜んでイエス様を迎えたように、あなたの心にイエス様を迎えるとき、天の父なる神様は大喜びで、あなたに新しいいのちをお与えくださいます。それが失われた者の救いです。