聖日礼拝メモ 9月21日
聖書 マルコの福音書10章35−45節
先週の礼拝で、愛することと罪についてお話ししました。ただ、その場合の愛は、普通の愛ではありません。神の愛、「悪人にも善人にも」太陽や雨をくださる大きな愛です。イエス様が「自分の敵をも愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられた愛です。
「ああ、私はそういう愛で愛していきました」と、イエス様の前で言えますか。私たちにはそんな大きな愛はないのではありませんか。ですから、救い主が必要なのです。そうでなければ、私たちは滅びるほかありません。そのために、私たちが滅びないように、イエス様が天から下って来てくださったのです。ここに救いがあるのです。
さて、今朝は、マルコの福音書の中から、10章を読んでいただきました。ここには、ヤコブとヨハネがイエス様に願いを言う場面が書かれています。彼らの願いは、天において、イエス様の右左に就く重要な地位を要求したのです。それに対して、イエス様の答えは、それを決めるのはわたしではない、「備えられた人たちに与えられる」というものでした。これを聞いていた他のでしたちは、先を越されたと思って、腹を立てたのです。このことは、弟子たちの真の姿を表しています。
イエス様がその後で話した言葉に、「異邦人」という言葉があります。つまり、弟子たちの心にはまだ異邦人と同じ思いが残っていることを表しています。つまり、栄誉をもって人を支配する権力を求める考え方です。これは、天の御国には通じない、かけ離れたものです。それでは、どういう考え方がよいのでしょうか。
それを表す言葉は、「仕える」です。そして、それを教えただけでなく、ご自分を模範として示されたのです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」この「人の子も」の「も」は、弟子たちに仕える姿勢を求めただけでなく、自分も同じ姿勢をとっているのだと教えるための「も」です。
それにしても、「来たのです」という言葉は、天から来た、すなわち受肉のことを指しています。天において安楽に暮らすのではなく、多くの人のためにいのちを与えるために、人間のからだを持つ人となって、人間の苦しみも楽しみも分かる形になって、なおいのちを与えようとしているのです。そこにあるのは、すさまじいばかりの愛です。それを、淡々と語るイエス様のすごさを感じるでしょうか。
イエス様の仕え方は、いのちを与えて、「贖いの代価」になることでした。当然、このことばには、死が意味されています。それは、「贖いの代価」となる死です。
贖いとは、代価を払って、人や持ち物を救い出すことです。イスラエル人は初子を神のものとして献げなければならなかったのですが、代価を払うことで、その子を自分で育てることができました。これを贖うと言いました。
エジプトで奴隷状態だったイスラエル人を解放し、自由を与えたことも、贖ったと言われています。罪の奴隷であった私たちの救いを贖いというのは、これと同じです。
贖う人と贖われる人の間には、深い関係があります。旧約聖書のルツ記には、この良い例が示されています。亡くなったエリメレクの土地を買い戻す権利を持っているのは、最も近い親族でなければなりませんでした。そのため、私たち人間の贖いのために、神の御子が人間となってくださったのです。もったいないことです。
愛のなかった者が贖われた結果、とてつもない恵みを受けています。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあります(ローマ5:5)。そのために、イエス様はいのちを捨ててくださいました。つまり十字架に死んでくださったのです。恥と苦しみの十字架を忍んでくださったのです。
イエス様はその苦しみについて、「わたしが飲む杯」とか、「わたしが受けるバプテスマ」と言っています。それをヤコブとヨハネにも経験できるかと、尋ねています。二人は「できます」と答えましたが、ヤコブは使徒の中で最初の殉教者となり、ヨハネはパトモスに流刑になりました。
「わたしが飲む」とか「わたしが受ける」と言われた背後に、これは強制されてのことではなく、自発的愛のゆえであることを覚えることができます。贖いの代価としてご自分を与える愛、それなしに、私たちには赦しも自由もありません。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19-20)と勧められているのは恵みであり、当然のことではありませんか。主の愛に応えたいですね。