聖日礼拝メモ 9月14日

聖書 マタイの福音書1章18−25節

 特別集会を控え、救いについて考えてみます。今朝は、新約聖書で最初に「救い」という言葉が出て来る箇所です。

 この箇所には、マリアとヨセフの関係が危ぶまれる状態の時、御使いのお告げがあって解決したことが記されています。そして、この出来事の中には、神が働いていることが示されています。御使いのことばを見ましょう。

 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」(1:20-21)。

 この言葉によって、マリアの潔白が示されました。聖霊の活動は、神の介入を意味します。そして、男の子、イエス、と語られました。最後に、この子の使命が「罪からの救い」であることも示されました。

 まず、「イエス」というよく知られた名前についての言葉を紹介します。

 「日本語では『イエス』という読み方が大体固定したとみて、新共同訳ではカトリック教会の人たちも、「イエス」という表記を聖書の中で思いきって使うことにしています。カトリックで使ってきた「イエズス」はラテン語のJesusを片仮名に直したものです。英語のジーザスは、同じスペルを英語流になまって読んだものです。ギリシア教会、ロシア教会の「イイスス」は新約聖書に書いてあるギリシア式のつづりであるΙησουsをそのまま変えずに読んだものです。これに対して「イエス」という読み方は、どこから来るかと言いますと、これは、新約聖書が表記するΙησουsの背後にあるヘブル語のイェシューあるいはイェシューアを写したものと言えるでしょう。

 「イェシューという呼び名は短縮形で、正式に綴って読むと、イェホーシューアになります。仮名で日本式に表記するとヨシュアです。……21節のイェシューのイェが神、シューが救いですから、イェシューで「神は救い」あるいは「神が救う」と意訳したらいいかと思います。「神が救い」という名前は、人間が救えないただ一つの問題である「罪」から、この方が救うことを言い表しています。自分の中に罪の事実を見て悲しむ人に、「あなたの罪を取り除いてきよくする方が来られたぞ」と呼びかける名前がイエスなのです」(織田昭「マタイによる福音」)。

次に「罪」について少し考えたいと思います。

 この「罪」と翻訳されている元のギリシア語は、「的外れ」という意味のことば、ハマルティアです。ここから、罪とは的を外すことと理解できます。これには二通りの取り方ができます。一つは、神が定めた的をねらったのに外れてしまうという意味と、間違った的を目指して進んでいくという意味です。このことから、人間は何を的にして生きるべきなのか、つまり人生の目的は何かを考えなければなりません。

 罪を考えるとき、自分は何を自分の人生目標にしてきたかを問われます。

 聖書は、人生の目標として、イエス様の別の名前として紹介されている「インマヌエル」を考えるとよいでしょう。つまり、人生の目標とは、神とともに歩むことです。神とともに歩むことは、神を愛することです。イエス様は「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と教えました(マタイ22:37)。私たちは神様を真剣に愛して生きることを目標にしているでしょうか。そして、その目標に達しているでしょうか。私自身は、到底その目標に届きませんでした。つまり、私は罪を犯していたのです。

 パウロは「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです」と語っています(ローマ13:10)。ヘンリー・ドラモンドは、その著書「人生で最高のもの」の中で、十戒の一つ一つを愛が満たすことを語っています。

 もし、そのまま人生を終わったら、神の裁きを受けなければなりません。恐ろしいことです。

 ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場を捕らえられた女性の話が書いてあります。学者やパリサイ人たちがイエス様にどうするかを問い詰めます。イエス様の答えは、「あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げなさい」でした(ヨハネ8:7)。訴えていた人たちは、一人、また一人と消えて行きました。そして、イエス様は「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか」と問いかけます。そして「はい、主よ。だれも」との答えに、イエス様は、「私もあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語りかけます。この女の人の罪は赦されるのですが、罪の罰はどうなったのでしょうか。それは、イエス様がご自分で引き受けて、十字架につくことによって、赦しの代価は払ってくださるのです。

 愛せない罪、愛さなかった罪、それから救い出す救い主として、イエス様は罪のない方として生まれたのです。そして、十字架のあと、三日目によみがえらされて、天に帰り、今も生きて執りなしをしてくださっています。罪を悲しむ人に、何という慰めでしょうか。感謝します。

カテゴリー: 礼拝メッセージ