聖日礼拝メモ 9月7日

聖書 ルカの福音書7章11−23節

 今日は、バプテスマのヨハネに目を向けていきます。

彼は、年老いたザカリヤとエリサベツの家庭に与えられた恵みの子でした。

 荒野で、いなごと野蜜を食べながら、らくだの毛の衣を着ていました。しかし、彼に神のことばが臨みました(ルカ3:2)。そして、神の国のために働きました。その働きぶりが記録されています。

 「ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。『まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい』。」自分の国の人を「まむしの子孫」と呼びかけたり、「迫り来る怒り」と裁きを宣告するような言葉、少し驚きですね。それなのに、人々は悔い改めのバプテスマを受けに来たのです。まさにリバイバルです。

 そんな働きをしたヨハネのことを、イエスさまはどう見ていたのでしょうか。この、ルカの福音書の7章には、「預言者よりもすぐれた者」(26節)とか、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」(28節)と、ほめています。それは、「彼は、あなたの前にあなたの道を備える」(27節)と言われる、救い主の道ぞなえをする使命に生きた人だからです。

 そして、彼の預言の中で一番大切なものは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」です(ヨハネ1:29)。この途方もない「世の罪を取り除く」ために犠牲になる方という預言は、聖書の贖いの方法の頂点になることを示しているのです。ヨハネはどのようにして知ったかは分かっていません。しかし、大切な預言です。

 そのヨハネが牢に入れられてしまい、情報が入らなくなって、弟子たちをイエス様のところに遣わしたのです。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきしょうか」と尋ねたのです。ヨハネはイエス様を信じられなくなりそうだったのです。

 イエス様を信じられなくなる、つまり、つまずく理由は、いろいろ考えられます。

 まず、人は周りの人に影響されたり、恐れたりして、イエス様を信じなくなるのです。サンヘドリンの議員の中にもイエス様を信じる人がたくさんいました。けれども、それを公表すると、追放されるので、言い出せなかったのです()。ヨハネの福音書にある生まれながらの盲目の人が癒やされたときも、その両親は、追放を恐れて、「本人に聞いてください」と逃げてしましました。この、「人を恐れる」ことは、どこの国の人にも起こることです(箴言29:25を参照)。

 自分の考える「救い主像」が、イエス様のなさっていることから違っていくときも、イエス様を信じられなくなります。ユダヤ人がイエス様の教えや癒しのわざを知って、この方が救い主ではないかと期待したのですが、その教えの中身が分かってくると、今までの習慣やしきたりを無にするのではないかと心配し、だんだんと離れて行ったのです。特にローマからの独立を願っていたユダヤ人にとっては、イエス様の行動は理解できなくなってしまいます。そして、つまずくのです。

 バプテスマのヨハネが弟子たちを使いに出して、「おいでになるはずの方は、あなたですか」と問うたのは、彼の心に心配が湧いてきたからです。それに対して、イエス様の答えは、ヨハネの弟子たちが見聞きしていることを伝えなさいというものでした。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています」というイエス様の上げた出来事は、旧約聖書で救い主が行う恵みのわざとして預言されていたものでした。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ書35:5-6)。また、ルカはイザヤ書61章を引用しています。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主は私に油を注ぎ、私を遣わされた」(ルカ4:18)。イエス様はこの「良い知らせ」を福音と言い換えています。

 これらの言葉を、イエス様が実現していることを認めて、イエス様が救い主であることを、悟りなさい。イエス様の思いは、ヨハネに通じたでしょう。

 イエス様の言葉の中に、「死人たちが生き返り」とありました。ヨハネの弟子たちが来る直前に、ナインのやもめの一人息子を生き返らせています(ルカ7:11-17)。救い主の恵みとまことに満ちた奇跡です。

 最後に、人がイエス様につまずく理由は、人間の言い伝えやしきたりに縛られるからです。時には、イエス様はパリサイ人に反発します。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか」(マタイ15:3)と言っています。同じようなことが、私たちにも起こりえるのです。

 パウロは、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」と言っています(ローマ10:17)。ヨハネは、イエス様の言葉を聞いて、しっかり信仰に立ち続けました。

 み言葉の真実が分かったでしょうか。自己流の救い主でなく、聖書の伝える救い主こそ、真実の救い主であると信じます。そして、信頼し、お祈りし、導いていただけます。そして、イエス様を深く知ることができます。すばらしい救い主です。

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