聖日礼拝メモ 8月31日

聖書 詩篇23篇1−6節

 ダビデの作と言われる珠玉のような詩篇です。

 「主は私の羊飼い」と歌い出します。ダビデにとって、「主」とはどのような方でしょうか。また、私たちにとって、どのような方でしょうか。

 この世界を造られた方は、この世界の持ち主です。また、主でもあります。天も地も、海も山も、動物も植物も人も造られた方。イザヤは、「主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」と歌いました(イザヤ40:28)。この神は、ご自身の愛を注ぐ者として私たち人間を造られました。ですから、主は私たちの羊飼いです。

第二に、羊を自分のものにするためには代価を払わなければなりません。Kさんは、「30頭の雌羊を買うために、血と汗と涙を流して得たお金で買い取った」と言っています。私たちは、キリストの血によって買い取られた羊です(Ⅰコリント6:20)。私たちはこの代価を払って買い取って、キリストの羊にしていただいたのです。

 第三に、羊には飼い主の印がつけられます。耳に切れ目を入れるのです。私たちにとっては、「自分を捨て、自分の十字架を負って」主に従うことです。キリストの指示に従い、みことばを守ることです。それでこそ、主は私たちを大事に守り、導いてくださるのです。

 さて、この詩篇には、「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」とあります(2節)。緑の牧場とは、恵みのみことばです。聖書は汲めば汲むほどに味わいのあるみ言葉が散りばめられています。そこで、心を満たされるのです。

また、「いこいのみぎわ」は、渇きを癒やすみ言葉です。

 羊が水を欠いたら、弱ってしまします。羊飼いは、どのようにして羊に水を飲ませるでしょうか。まず、朝つゆに濡れた草を食べさせるのです。日本でも朝つゆが降りますが、パレスチナでは草はとてもたくさんの露をつけるのです。時には朝のこの露たっぷりの草を食べると、何時間も水を飲まないでいられるほどです。

 二番目の水飲み場は、井戸です。これは、「つるべ」で水を汲みます。縄をバケツのような入れ物に結び、井戸の底にある水まで垂らし、水を入れてから引き上げます。腕を使います。大きな井戸では、そこまで階段があって、降りていって水を汲んで持ってあがります。これは手も足も使います。羊のためです。イエス様は十字架につかれ、今は天にあって執りなしをしておられます。

 三番目は、泉や小川です。まさにみぎわです。ところが、泉や川に降りていく手前に水たまりがあります。羊は、そこで足を止めてしまうことがあります。でもその水は汚れていて、病気の原因となるのです。ですから、羊飼いは川までしっかり羊をつていきます。「伴われ」るのです。人間も、救い主のもとまで行かずに、自分で好きなところで止まってしまいます。たとえば、スポーツ、宗教、芸術、文学、儀式や思想などで、心を癒やそうとします。

 イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます。それは、栄光の御国への招きでもあります。愛と恵みに満ちた救い主が両手を広げて待っています。この方のもとで、平安と自由と希望をいただけるのです。「いこい」とは、安心して安らぐことでしょう。まさに、イエス様のお言葉や、その愛の御手の中に、憩うことができる人は何と幸いなのでしょう。主は、今日もあなたを招いておられます。

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