聖日礼拝メモ 8月10日
聖書 エゼキエル書47章1−12節
立秋を過ぎ、残暑の厳しい中、礼拝の場に集えたことを感謝します。今朝は、エゼキエル書47章からみ心を聞きます。
エゼキエル書の40章以下は、神殿の幻を中心に書かれています。この47章は、神殿から流れ出る水を描いています。案内は御使いです。
神殿の中心である祭壇から水が流れ出ていました。東側に流れて行きます。そして、500キュビト測るごとに、水が深くなっていきました。足首から膝、腰から泳げるほどの水量になっていました。この水は、支流からの流れ込みがないのに、このように水が増えるのは、不思議なことです。御使いの説明によると、アラバにまで流れ下るのです。アラバとは、死海のある窪地です。
死海に流れ下った水は、「そこの水が良くなる」働きをします。そればかりでなく、「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」のです。この川は、いのちの水の流れなのです。
さらに、川岸にはたくさんの果樹が育ち、「その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける」のです。それは、「その水が聖所から流れ出ているから」と説明があります。
聖書には、同じような幻が描かれています。ヨエル書3章18節を見てみましょう。「泉が主の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す」とあります。エゼキエルと同じような幻を預言しています。主の再臨のときには、作物も牧畜もさかんになり、干ばつがなくなる、その原因が宮から流れる水にあります。
ゼカリヤ書14章8節には、「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる」とあります。ここでは、神殿から流れ出る水は「いのちの水」と言われています。そして、エゼキエルは東に流れると語っていますが、ゼカリヤは西にも流れると言っています。東は死海、西は地中海です。神様の豊富な恵みを表しています。
エレミヤは、人々のしていることを見て、主のことばを語りました。「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない壊れた水溜めを」と(エレミヤ2:13)。ずいぶん辛辣に語ったように見えますが、これは、人間の姿です。ですから、イエス様は、招いているのです。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)。イエス様の招きに応じるなら、いのちの水の流れがあなたのものになるのです。
黙示録にはこうあります。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にもあちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は、諸国の民を癒やした」(黙示録22:1-2)。
さらに、こう招きのことばが記されています。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」(黙示録22:17)。何という幸いな招きでしょうか。主イエスのもとに行き、罪の重荷を下ろし、平安と希望と愛をいただいて、感謝しながら生きて行かれるとは!