聖日礼拝メモ 7月13日

聖書 ゼカリヤ書4章1−14節

 このゼカリヤ書の4章には、有名な言葉が。記されています。それは、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(6節)です。関西聖書神学校のロゴマークになっているのです。

 この言葉にはインパクトがあります。権力や能力を使いたいという人間の本能的な思いを引き止め、別の次元に向けるのです。それでは、本来の意味あいを探りましょう。

 まず、3章を読んでいただきたい。そこには、大祭司ヨシュアのきよくされる出来事が記されています。先週開いたハガイ書では、ヨシュアとゼルバベルの名前は対になって5回も出て来ました。そして、ゼカリヤ書の3章で大祭司ヨシュアが扱われ、4章でゼルバベルが扱われています。

 このゼカリヤ書の初めには、8っつの幻が記され、この4章では五番目の幻として、燭台と二本のオリーブの木の幻が記されています。⒉-3節には、こう記されています。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。その上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。またそのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります」(⒉-3節)。ゼルバベルには、この幻の意味が分かりませんでした。御使いに質問をしたのですが、その返事が、先ほどの6節、7節の言葉だったのです。

 7節は、様々な困難の中でゼルバベルが神殿の再建を成し遂げる励ましの言葉です。『大いなる山』とは、がれきの山、人々のやる気のなさという山、そして、妨害という山です。これらの困難を乗り越えるために、御霊の助けをいただくために、祈らなければならなかったのです。ゼルバベルは祈りの人に変えられたいきました。

 「かしら石」とは、礎石のことではなく、建物の一番大事な石で、最後にはめるものです。それをゼルバベルが行うとき、人々は、歓呼の声を上げるのです。「恵みあれ、これに恵みあれ」とは、その完成を喜び、恵みが注がれていることに感謝する声です。9節は、そのことの確認です。

 10節の「だれが、その日を小さなこととして蔑むのか」とは、ハガイ書にあった、ソロモンの壮大な神殿を覚えている人たちや、見るからにみすぼらしいと蔑む人たちへの言葉です。この神殿には、救い主がやって来る栄誉があるのです。蔑むのはお門違いです。

 ゼルバベルが仕事に携わっている姿は、人々の励ましとなり、喜びとなると、預言されています。「重り縄を見て喜ぶ」とは、そういう意味です。

 「これら七つは、全地を行き巡る主の目である」とは、神がすべてを見ておられることを表しています。妨害に対しても、主は守っておられるのです。

 11節と12節で、ゼカリヤはもう一度、二本のオリーブの木について尋ねます。この二本の木は、大祭司ヨシュアとゼルバベルを表しています。二人は、「油注がれた者」と言われています。救い主が大祭司であり支配者であることを表しています。

 神殿には、三つの意味があります。建物としての神殿、イエス様が「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」といわれた、からだの神殿、もう一つは、キリストのからだである教会です。ハガイやゼカリヤの神殿の再建が神の御霊によってなされたように、教会の建設も聖霊と祈りによるのです。

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