聖日礼拝メモ 6月22日
聖書 創世記41章37−45節
先週は御霊によって歩むことに心を向けました。今朝は、御霊に満ち、導かれた人を取り上げてみましょう。旧約聖書の創世記にあるヨセフの生涯をたどるとき、御霊がヨセフを捕らえ、ヨセフは御霊に導かれて歩んだことが理解できるでしょう。
ヨセフは、10人の兄をもつ男の子でした。ヨセフの母が、父ヤコブの最愛の妻であったために、とてもかわいがられて育ちました。特別の服を着せられたヨセフは、兄たちに妬まれ、憎まれました。そして、父のもとから離れていた所で、兄たちはヨセフを捕らえ、通りかかった人たちに奴隷として売ってしまったのです。ヨセフの悲しみはどんなだったでしょうか。
エジプトに連れて行かれたヨセフは、ファラオの高官のポティファルに買われて、奴隷として働きます。その仕事ぶりに感心した主人は、ヨセフを抜擢し、信頼して、いろいろと任せて行きます。
ところが、主人の妻がヨセフを誘惑します。それに応えなかったため、ヨセフは憎まれて逆に訴えられ、牢に入れられます。その牢に入ってきた二人のファラオの高官たちの夢を説き明かします。そして2年がたちます。ファラオがおかしな夢を見て、呪術者たちを集めますが、夢を解き明かせません。そこで、ヨセフが呼び出されたのです。
ヨセフは、夢を解くのは神のわざで、自分はそれを伝えるだけと、謙遜でした。そして、解いた夢のために、エジプトを管理する人を立てるように進言します。その時のファラオのことばが、「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか」でした。
ヨセフがこのような評価を受けることばを出せたのは、どうしてでしょうか。いつから、ヨセフは『御霊の人』となったのでしょうか。彼が、奴隷として売りとばされた事件の頃ではないかと、思われます。蔦田二雄先生は、「聖潔の生涯」の中で、次のように言っています。
「私たちの信仰は、試練をこえるたびに陶冶され、純化され、力を増加して強くなっていくものである。試練と困難の中を通過しないで強くなった人はない。聖書中の人物、また教会歴史の中を見ても、優れた人物はみな、患難の人、逆境の人、誤解と迫害と貧困の中を通過した人である。なぜなら、このようなところを通過しないで本当にたくましい信仰はありえないからである。」
ヨセフは、豊作の後の飢饉に備えます。そして、兄たちが食糧を求めてやって来ます。宰相になったヨセフを、兄たちは分かりませんが、ヨセフには兄たちが分かります。そこで、兄たちの心が以前と同じかどうかを試します。ユダが身代わりになることを申し出たとき、ヨセフは兄たちに自分を明かします。涙の再会となります。
ヨセフは復讐する心を持っていません。父ヤコブをエジプトに呼び寄せ、全家を養います。ヤコブが死に、葬儀が終わったとき、兄たちは復讐を恐れていましたが、ヨセフは赦したことをはっきりと言い表します。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(50:19-20)。聖霊に満ちた人は、赦せない者を赦せるのです。すばらしいことです。