聖日礼拝メモ 6月15日
聖書 ガラテヤ人への手紙5章16−26節
先週はペンテコステでした。聖霊が注がれたことと、それは主イエスの復活、昇天の結果であることを知りました。今朝は、聖霊によって歩むとはどういうことかを考えます。
今朝の聖書の箇所には、「聖霊によって」という言葉が何度も出て来ます。「聖霊によって歩みなさい」(16節)、「聖霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません」(18節)、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」(25節)。
パウロはピリピ人への手紙の中で、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます」と言っています(2:13)。この神様が私たちの心の中に与えてくださる『志』を御霊と共有して生きることが、御霊によって生きることだと言ってよいでしょう。
共有するためには、私たちは御霊に話さなければなりません。つまり、御霊との交わりが生きていなければ、御霊によって歩むことはできないのです。交わりが乏しければ、志は自分よがりのものになってしまい、的外れになってしまう危険があります。お祈りの生活が、聖霊とともに歩むことには不可欠なのです。
さて、その志はどのようにして与えられるのでしょうか。それは、み言葉の中にあります。たとえば、「わたしの愛の中にとどまりなさい」とあれば(ヨハネ15:9)、イエス様の愛にしっかり拠り頼んでいこうと思います。そして、「聖霊さま、イエス様の愛を注いでください」と祈ります。こういう交わりがあってこそ、御霊の実が結ばれていくのです。
牧師は、イエス様が仰ったことを伝えるのが仕事です。聖書の言葉は、私たちの外から来るものです。それにどう答えるかは、一人ひとりの問題です。神が心を込めて語っておられる言葉を聞き流してはなりません。
さて、実を結ぶためには種を蒔かなければなりません。
御霊の実は、霊の種から産まれます。霊の種とは神の言葉です。種はみことばの中にあります。そして、種類に従って実を結ぶのです。霊の種が実を結ぶために、いのちを与える御霊がみ言葉の中に宿っているからです。
実が育つのは、聖霊によって、種のために整えられた心の「地」で育つのです。どうしたら、心が整えられるのでしょうか。それを示すのが24節です。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」とあります。ここでいう「肉」とは、肉体のことではありません。アダム以来の「罪深い性質」、「自己中心な感情と願望」、「罪深い自我」のことです。神に背く、自分中心な心です。それを十字架につけられたものとして、手放すことです(古い自分を脱ぎ捨てることです)。
聖霊に導かれて生きていく——み言葉に導かれて生きていくとき、実を結ぶのです。ですから、御霊によって生きるとは、み言葉に親しみ、み心を求めながら、主と交わり、語り合い、相談し、指摘されたら改め、日毎に進んで行くのです。佐野清美姉は、言い返そうとしたとき、「一呼吸おいてから話しなさい」と御霊に言われ、変えられていきました。祈り深く、み言葉に親しみ、愛をいただいて、主と人々を愛して生きていきました。御霊によって歩んだ人生でした。