聖日礼拝メモ 6月8日

聖書 使徒の働き2章1−21節

 今朝はペンテコステを記念する日です。それは、使徒の働きの2章に記されている出来事です。何が起こったのか、見てみましょう。

 まず、「五旬節」について調べてみますと、過越の祭りの後、大麦の初穂を献げてから50日のお祭りです。大麦の刈り入れを終わり、小麦の刈り入れが始まる時期です。その日、弟子たちが集まっている所に、激しい風のような音と火のようなものが現れ、弟子たちが聖霊に満たされたのでした。これが、ベンテコステの中心の出来事です。

 弟子たちは、イエス様が約束した方を待っていたのです。助け主であり、真理の御霊と呼ばれている方です。聖霊に満たされた弟子たちに不思議なことが起こりました。外国のことばで主を称え始めたのです。

 当時、過越の祭りに上京していた人たちが、そのまま五旬節までエルサレムに留まっていることが多かったようです。その人たちが、おかしな音を聞いて、弟子たちのところに集まって来ました。そして、弟子たちの語ることばにびっくりしたのです。「自分の国のことば」、「それぞれが生まれた国のことば」で主を賛美する弟子たちに驚かされます。いろいろな言葉が交じり、まるで酔っ払いのことばのように聞こえた人もありました。

そこでペテロが立ち上がり、説明をしようとします。

 まず、酔っているのではないことを示し、ヨエルの預言の成就であると説明します。ヨエルは、世の終わりに聖霊が注がれると預言していたのです。それがどうしてこの時なのかを説明するために、ペテロはイエス様の出来事を話します。

 「力あるわざと不思議としるし」によってメシアであることが証しされたナザレのイエスを思い起こさせます。過越の祭りにエルサレムにいた人たちは、当然知っていることでした。そして、ローマ人の手で十字架につけられてしまったこたも、死んで三日目によみがえらされたことも、聴いていたはずです。ペテロは、これらのことを話して、復活して天に昇ったイエスこそ、聖霊を注いでくださった方であると、論証しました。最後に、「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と言いました。

 その結果、聞いていた人たちの心が刺されたのでした。自分たちがとんでもないことをしてしまったと気づいた人たちは、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と問いました。ペテロは、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と勧めました。悔い改めとバプテスマ、すなわち洗礼を語りました。

 「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた」と聖書は語ります(41節)。当時、巡礼者やいけにえを献げに来た人たちの、汚れを落とす池が200もあったと伝えられています。弟子たちは、手分けして、三千人の人たちに洗礼を授けたのでしょう。洗礼を受けた人たちは、信仰生活の基本を教えられて、教会が整っていきました。その基本とは、教え、交わり、聖餐式、祈りです。以上がペンテコステの朝に起こった出来事でした。

この中から、二つのことをお話ししておきたいと思います。

 一つは、主イエスを信じてバプテスマを受けた人たちのことです。彼らは、ナザレのイエスを犯罪人として十字架につけられたと理解していたのですが、ペテロの説明を聞いて、その生涯と死と復活、昇天、そして聖霊を注がれたことで、救い主と分かったのです。彼らが悔い改めたのは、生き方を変えたのです。人間的に見ていたのを、神中心に見るようなったのです。イエス様を主なるキリストとしてお頼りするようになったのです。その結果、バプテスマ、すなわち洗礼を受けたのでした。生き方の変化を体で表し、しっかりと生活に染みこませてゆく効果があったのです。

 まだ洗礼を受けていない方々に、ぜひ、イエス様を救い主として受け入れて、洗礼を受けるようにお勧めします。

 さて、もう一つのことは、聖霊に満たされることです。

 蔦田二雄先生は、この「満たす」という表現で物理的なイメージを持ちやすいけれども、人格的なことだと、語っていました。心の問題です。

 聖霊に満たされるためには、心を空にすることが前提になります。ふつう、私たちの心は、「自分の霊によって、自分の知恵によって、自分の善良さによって、自分の誠実さや強さによって、自分自身の喜びや自分自身の平和によって」満ちているものです(リュティ)。イエス様は、「心の貧しい人は幸いです。天の御国は彼らのものである」と言われました。心を空にする、貧しくなる、それは満たされるための条件です。自分の誇りや伝統や考えを捨てて、へりくだり、空になって、聖霊を受けて、従っていきましょう。

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