聖日礼拝メモ 6月1日

聖書 ヨブ記42章1−17節

 ヨブ記の三回目のお話しになります。最初は彼の苦しみについて考えました。一万頭以上の家畜がすべて失われ、10人の子どもたちも大風で死に、病気になりました。人間関係も、妻の冷たいことばに、三人の友人たちの責めることばに、嫌気が指していたことでしょう。ヨブは、三人の友に対して「無用の医者だ」(13:2) とか「人をみじめにする慰め手だ」(16:2)と評しています。そして、ヨブの願いは、この苦しみの源である神ご自身に説明を求めることです。

 ヨブのことばを見てみましょう。31章を読んでいきます。ここには「もし」という仮定のことばが何度も出て来ます。そして、もし自分がしたこと、しなかったことの責任を取らなければならなかったら、進んで取ると言っています。つまり、ここでヨブは自分の潔白を言おうとしているのです。そして、最後に、「全能者が私に答えてくださるように」と訴えています。

 ヨブ記には、その後、エリフのことばが続きます。彼は、ヨブが言い過ぎたのではないかと言います。また、試練には教育的面もあることを語ります。

 その後で、主ご自身がヨブに語りかけます。「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と始めて、質問攻めにします。その内容は、海のこと、光、雪、嵐、雨、天体、そして動物たち(ライオン、野やぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、鷹など)、そして河馬(ベヘモテ)、レビヤタンです。

 これらの言葉を聞きつつ、ヨブの心に変化が起こります。神の無限の知恵と力を理解し始めます。そして、それは、ヨブ自身の理解に光を与えます。この世界には、自分の知らないことがあることを認めざるをえないのです。つまり、創造主に信頼する心が強められたのです。その御わざの中に自分もいることを知ったのです。そして、なぜこんな苦しみにあわなければならないのかという、ヨブの悩みは小さくしぼんでしまったのです。

 神は、三人の友人たちが神について確かなことを告げなかったために、三人を叱り、いけにえを持って来させ、ヨブに執りなしを求めます。ヨブの心は、あんなに自分を責めた友人たちを赦し、彼らのために取りなしの祈りを献げることができるほど、豊かになり愛に満ちてきたのです。

 その祈りを契機にヨブの健康は回復します。そして、兄弟や知人たちが、慰めにやって来て、交わりを楽しんだのです。

 神はその後、財産をもとの二倍にされた、とあります。これは神のプレゼントです。報いではありません。

 人間には、まだ分からない事がいっぱいあるのです。「なぜこんな目にあわなければならないのか」と思いやすいのが人間です。しかし、創造主である神に信頼し、神が神であるゆえに愛することが、人間に求められていることではないでしょうか。主イエス様も、「空の鳥を見なさい」とか「野の百合を見なさい」と言われたのは、創造主である神に信頼することを教えておられたのです。その意味で、聖書を読まなければ、創造主である神に信頼する幸いは身につかないのではないでしょうか。

 それとともに、神に語りかけ、交わりを楽しむことです。良きにつけ悪しきにつけ、イエス様に話しかけることです。

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