聖日礼拝メモ 5月25日
聖書 ヨブ記23章1−17節
タイトル 「ヨブの悩み」
先週、ヨブの苦しみについて聖書から見てきました。7人の息子と3人の娘、そして、7千匹の羊、3千頭のらくだ、5百くびきの牛、5百頭の雌ろばがいたヨブに、一日にしてみな失うという悲劇が訪れたのです。一人の子どもが死ぬのさえ悲しみであるのに、10人全部が失われ、財産もみな失われたのでした。その苦しみ、悲しみは、たいへんなものだったでしょう。ヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いました。
さらにヨブは病気になりました。「悪性の腫物」と書かれています。彼は「灰の中に坐っていた」と書かれています。これは、ゴミ捨て場のことです。彼のみじめな気持ちが伝わってくる姿です。
ヨブの妻も苦しみました。そして、「神を呪って死になさい」と言ってしまいます。それに対して、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と言って、神をのろうことはしませんでした。
そこに、三人の友がやって来ます。「ヨブに同情し、慰めようと」話し合ってやって来ました。しかし、その姿を見た時、彼らは「声をあげて泣き」、悲しみを表しました。彼らは「七日七夜」ヨブとともにいて、「一言も彼に話しかけなかった」と書かれています。
その後、ヨブは「生まれてこなければよかった、死にたい」と嘆きます(3章)。それがきっかけで、三人の友人たちが口を開きます。彼らがヨブに語りかけたのは、どういうことだったでしょうか。ヨブのあまりの悲惨な姿を見て、これは何か大きな罪を犯したためではないか、と思って、ヨブに白状させようとしたのです。
最初のエリファズのことばの中に、「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか」とあります(4:7)。ヨブの潔白を疑っている心が見えます。
次のビルダデも、こう言っています。「もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう」と(8:6)。ということは、ヨブが純粋でない、真っ直ぐでないと、言っているようなものです。また、「見よ、神は誠実な人を退けることなく、悪を行う者の手を取ることはない」と言って(8:20)、ヨブの誠実を否定するようなことばを使っています。
さらに、三人目のツォファルも、こう言っています。「もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、そのとき、あなたは、欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない」と(11:14)。まるで、ヨブが不正が住んでいる天幕に暮らしているかのように、ヨブを責めています。
この三人の友人たちの考えのもとにあるのは、因果応報の考え方です。しかし、ヨブの経験は、いわれのない苦しみ、つまり因果応報に当てはまらない苦しみなのです。そこに、ヨブの悩みがあります。
これら三人三様のことばで、ヨブの苦しみの原因を突きとめ、ヨブを罪あるものとして悔い改めをするように迫るのです。これは、ヨブを悩ませるものです。ヨブには、彼らの言っていることは理解できますが、それに相当する罪を知らないのです。犯していないのです。ですから、彼は自分の潔白を主張しました。
しかし、苦しみは続きます。からだは悲鳴を上げています。その苦しみの重さが彼の悩みでもありました。なんとか、この苦しみのもとである神のもとに近づきたいと思っても、どうにもならない状況なのです。その中で叫びたいほどの気持ちで語ったことばが、23章です。
「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたいものだ。私は神の御前に自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい。
「だが見よ。私が前へ進んでも、神はおらず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、神を見ることはなく、右に向きを変えても、会うことができない」(23:3-4、8-9)。
ヨブは、自分の苦しみの原因が何であるかを知りません。1章にある、神とサタンの対話を知りません。それはヨブには隠されているのです。ここには、神の沈黙があります。31章を開いてみましょう。彼の最後のことばになります。
「だれが、わたしの言うことを/聞いてくれる者はいないものか。――ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるようにーー」(31:35)。
この神の沈黙は、人間が悩む理由ですが、一つの慰めがあります。それは、十字架の主イエスの姿です。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との苦しみの中の叫びに、答えはありませんでした(マタイ27:46)。主イエス様は、神の沈黙を経験され、それでも信頼し続けた方です。そして、最後に「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」と言って息を引き取られたのです(ルカ23:46)。
ヨブには分からなかったために、苦しみ悩みましたが、私たちには苦しみ悩む中で、このイエス様がともにいてくださるという慰めがあります。