聖日礼拝メモ 5月18日

聖書 ヨブ記3章1−10、20―26節

 苦しみにもいろいろな面があります。その中で、いわれのない苦しみというものがあります。聖書には、ヨブという人の苦しみについて書かれています。その中から学んでみましょう。

 ウツの地にいたヨブが、まず紹介されています。彼の敬虔とその資産が書かれています。「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」と三回も記されています。1章1節と1章8節、2章3節です。そのうちの2回は、神ご自身の評価です。すばらしい人物です。

 彼には子どもが10人あり、資産は、羊、らくだ、牛、雌ろばです。その数は驚くほどのものです。「一番の有力者」と言われています(3節。「富豪」とも訳されています)。

 場面は変わって、天の会議になります。そこにサタンが参加し、主の誇るヨブを試練に誘います。サタンは、神が垣を設けているからヨブは安泰なのだ、垣を取り払えば神をのろう、と挑戦したのです。主はヨブ自身に触れないという条件で、サタンにヨブを任せます。サタンは、10人の子どもも、財産の家畜も失うようにします。

 ヨブに知らせが入った時、彼は「上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った」のです。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」この悲しみと苦しみの中で、彼は神への信仰を言い表したのです。

 また場面は変わって、天の会議になります。そして、またサタンが参加し、再びヨブを試みる提案をします。ヨブが自分自身に災いが来なかったから呪わなかった、と。そこで、いのちに触れない条件でサタンに任せます。ヨブは非常に苦しい病気になります。すると、ヨブの妻は、「これでもなお、自分の誠実さを保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」と声をかけます。これは、ヨブを苦しみから解放したいという願いからか、あるいはサタンに感化されたか、どちらとも取れる言葉です。しかし、ヨブは愛を込めて、「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と返事をします。この時も、ヨブは罪を犯さなかったのです。

 次に登場するのは三人の友人たちです。彼らはヨブのことを聞いて、慰めるためにやって来ます。しかし、あまりに悲惨なヨブの姿に言葉もなく、泣き崩れます。そして、ただ黙ってヨブの傍らに座るのです。

 その後のこと、3章でヨブが口を開きます。それは、嘆きの言葉です。生まれた日をのろい(1-10節)、死への憧れを語り(11-19節)、人生の意味を問う言葉です(20-26節)。

 このような苦しみの中を通っているヨブのことを、あなたはどう思いますか。ヨブは堅く信仰に立っています。ある人の言葉をもとに、少しまとめてみましょう。

1 この苦しみの背後に神がおられることを、ヨブは信じています。神の許しなしには、このことは起こらなかったのです。

2 どんな罪にもかかわらない苦しみというものがあるのです。ヨブの誠実を神ご自身が認めているのですから。

3 3章25節で、「私がおびえているもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかった」と言っています。ヨブは、自分がどんなに豊かになっても、取り去られることがあることを予想していたのです。自分だけには災いが降りかからないとは、思っていませんでした。こういう知恵を持っていないで、災いにあって泣き叫ぶ人もあります。ヨブは悲しみ嘆きましたが、予想はしていたのです。

4 人間がこのような苦しみにあった時、その苦しみを告白することを、神は許されているのです。人間は心の有り様を表現することができることは、慰めです。

5 ヨブの言葉を見ると、ヨブにはご利益宗教とは別の世界にいたように見えます。どんなにご利益がなくても、神に信頼している姿は尊いものです。

 友人たちとの会話が始まるのですが、今日はここまでにします。

 財産も家族も失ったヨブの苦しみを、私たちが経験することがないかもしれませんが、ヨブの姿からいろいろなことを考えさせられます。

 一つ、ヨブの知らなかった主イエスの十字架の苦しみを、私たちは知っています。全く罪のない方が迫害され、死に追いやられた出来事は、私たちのためであったと語られています(ローマ5:8)。私たちには、この方に拠り頼むことが許されています。信頼してまいりましょう。

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