聖日礼拝メモ 3月23日

聖書 ペテロの手紙第一 1章17−25節

 私たち日本人のクリスチャンは、聖餐式の意味をどれほど知っていることでしょうか。私自身、聖餐式の醍醐味を味わうまでになっていません。イエス様の十字架上の死に思いを向けて、聖餐式に臨みたいと思います。

 聖書は、ペテロの手紙第一です。この箇所の中心に「贖い出された」とあります。この言葉は、原語のギリシア語で、身代金を払って奴隷や捕虜を解放する、という意味の言葉です。

 聖書は、私たちが様々なものの奴隷になっていると見ています。何週間かまえに、そのことを聖書を開いて学びました。罪の奴隷、死の恐怖の奴隷、欲望の奴隷、神でない神々の奴隷(つまり偶像や悪霊の奴隷)です。

 ここでもう一つのことが浮かび上がってきます。それは、「先祖伝来の空しい生き方」です。伝統に縛られている姿が浮かび上がってきます。当時の人々のことを考えますと、ユダヤ教の伝統やギリシアの伝統、ローマの伝統があったでしょう。ペテロの前には、いろいろな伝統があったわけです。日本にもいろいろあります。それに縛られている人が自由になることができることが、わかります。

 伝統に縛られている人が自由になることはむずかしいことです。先祖伝来の伝統ですから。でも、ペテロはそこから贖い出された人のことを語っています。どんなに大きな代価が払われたことでしょうか。ペテロの言葉では、「銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです」とあります。血はいのちを表します。イエス・キリストは、罪を犯さなかったことが福音書に記されています。その罪とは、いわゆる犯罪だけではなく、精神的、霊的な罪も犯さなかったと言うことです。ねたみとか恨みとかがない、聖い心の持ち主でした。そのお方が十字架につけられたのです。そして、十字架に追いやり、十字架につけた人たち、まわりで見ていた人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。憎しみも復讐心もない方です。その方のいのちを、それだけが私たちの人類の身代金として価値があるものだったのです。

 人間は自分の好きなように生きていきたいと願っています。それを曲げられることをきらいます。しかし、それでは神の国を作り出すことはできません。神のみこころに添うことを嫌がるなら、御国には行かれません。しかし、束縛されていたものから自由にされた人たちは、御国を相続します。彼らは地上に生活しても、寄留者のように生活します。母国は天に在り、国籍を天にいただいているからです。そのことも、ペテロは知っていました。「この世に寄留している時」と書いているからです。

 そして、イエス様の永遠性をも、ペテロは語っています。「キリストは、世界の基が据えられる前から知られていました」とあります(20節)。イエス様の十字架の苦しみと死を、永遠の昔からの神様の計画であったことが示されています。

 聖餐式では、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」とパンが配られます。また、「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と、ぶどう液をいただきます。イエス様の十字架の苦しみと死を想い、その愛に応え、聖餐をいただく私たちが赦し合い、愛し合って生きることが求められているのです。主よ、感謝します。

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