聖日礼拝メモ 3月9日
聖書 ルカの福音書19章1節―10節
この何週間か、神様のすばらしさに焦点をあてて、聖書を見てきました。今朝は、主イエス様を通して現された愛とあわれみを見てみたいと思います。聖書は、ルカの福音書の19章、イエスさまとザアカイの出会いです。
ザアカイは、どんな人だったのでしょうか。彼の名前は、ザカリヤを短くしたもので、きよいという意味の言葉からつけられました。さしずめ、清とでも言える名前です。しかし、彼は、取税人のかしらでした。取税人は、ローマの支配のもとで、税を集める請負人ですが、規定の額以上の税を集め、私腹を肥やすことができるのでした。集めた税をローマに収めて、ユダヤの国のためにはなりません。そのため、取税人は売国奴と呼ばれるほど憎まれていました。エリコはエルサレムの東にある栄えた町です。何人もの取税人がいたのでしょう。そのかしらを勤めていたのがザアカイでした。ですから、彼が金持ちであったことは、うなずけます。
ザアカイは「背が低い」人でした。これはコンプレックスのもとになります。人に嫌われる取税人になったのも、そのためかもしれません。そのザアカイに様々なうわさが入って来ます。特に、取税人に人気があるナザレのイエスのことは、彼の心を刺激しました。また、取税人のマタイが弟子になったことも、伝わってきたことでしょう。そのイエスとはどんな人か見てみたいと思うようになったのです。それが、エリコの町にやって来たと聞いて、ザアカイはにわかに動き出します。
ところが、イエス様を迎えたエリコの町の人たちは、列をなして見に来ています。ザアカイも見たいと思っても、背の低いザアカイには高い壁ができているようで、見えません。人々はザアカイを無視し、前に出させてくれません。ザアカイが人々にどう思われていたかが表れています。孤独な人だったのです。それでも彼はこの機会を逃してはならないと、いちじく桑の木に登ります。
イエス様はやって来ました。繁る葉の間からはよく見えません。イエス様は「上を見上げ」、声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と。初めて会ったザアカイの名を呼んだのです。詩篇139篇にあったすべてをご存じの神様の姿です。
「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」との説明に、ザアカイは驚きとともに、嬉しさを感じたことでしょう。ザアカイは「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」のでした。そうです、ザアカイの心に光が差し込んだのです。
ザアカイは家でイエス様と話しているうちに、一つの決意をします。それが「立ち上がって」話した理由です。彼は、施しと賠償を申し出ました。苦労して金持ちになったのに、彼はそれを手放そうとしています。財産の半分を施し、「脅し取った」ものを「四倍」にして返そうとしています。ザアカイの心が変わったのです。それを、イエス様は喜んで「今日、救いがこの家に来ました」と言われました。イエス様は、天から地に下り、ユダヤの国に来られ、エリコに来られ、ザアカイの家に来られたのです。ザアカイの心に来られたので、家族が救われたのです。
そして、イエス様は、ご自分の使命を語られます。「人の子は失われた者を捜して救うために来たのです。」この「失われた」者とは、15章で「いなくなった」羊、「なくなった」銀貨、「いなくなった」息子を指す言葉と同じです。おるべきところからいなくなっている状態です。
ギリシア語では、罪を表すことばに、「ハマルティア」が使われていますが、これは、的外れを表す言葉です。つまり、罪とは、自分の存在の原因であり、源である神様を忘れ、的外れに、人間や地位や財産に向かって生きている姿です。ザアカイはそこから救われたのです。神とともに生きる、心豊かな生活に変えられたのです。
この説教では、「愛とあわれみの神」と題して話してきました。愛とは、ザアカイのように、的外れの人生を送っている状態に対する神の慈しみの現れです。あわれみとは、罪のために背負い込んでいる課題や問題に対していだく、神様の慈しみの現れです。イエス様の人生、その言葉、その歩みの中に、この愛とあわれみが表されています。神の御子イエス様を見ることにより、神様の心が見えるのです。ザアカイは、知的に知っていた神様の愛とあわれみを、イエス様の姿の中に見ることができたので、喜んでいるのです。イエス様の愛とあわれみは、今も私たちに注がれています。「見よ、わたしは(心の)戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて(心の)戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)。これは、今から50年ほど前、増井兄が救いにあずかったお言葉です。あなたの心の戸を開いて、イエス様をお迎えしましょう。