聖日礼拝メモ 1月12日

聖書 エペソ人への手紙5章1節―14節

 パウロは8節で「あなたがたは以前は闇であったが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と勧めています。世の光であるイエス様に出会って、イエス様の恵みをいただいた者に対することばです。今朝は、このことに目を向けます。

 このことばの中に、「闇」という言葉があります。ある人は、これは悪魔と罪を表すという意味だと説明します。確かに、悪魔も罪も黒いイメージで、闇に通じます。でもここでは、「あなたがたは闇であった」となっています。闇に飲まれていたとか、闇に捕らえられていたという表現とは違います。人間が闇なのです。それは、光である神から離れて、神と関わりがない人間の姿なのです。神の愛を伝えられても、何の感動もない状態です。悲劇的なのは、人間がその状況にある自分を理解していないことです。「病識」がないのです。それは、私たちの姿でした。

 パウロは、その状態を別の言葉で言い表しています。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れの中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」と(2:1-2)。死んでいて反応のない者、世の流れに流されている者、悪魔の働きに従っている者でした。さらに、3節では、「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と言っています。

 ウエスレーは、23歳の時、自分に献げることは悪魔に献げることと同じだと気がつき、すべてを神に献げる決心をしました。闇から光に移る契機となったのです。

 しかし、主イエスの血潮を仰いで御救いにあずかった者は、すでに光になっているのです。主イエスが世の光で、私たちは小さな光なのです。光の子どもなのです。私たちは、暗闇のわざを捨てて、光の道を歩みます。それは主に喜ばれる道です。その内容について、ここでは三つあげておきます。

 まず、感謝です。「むしろ、口にすべきは感謝のことばです」とあります(5:4)。身近なことから感謝をはじめることができます。見えること、聞こえること、手が動くこと、食欲があること、息ができること、その他、内臓についても感謝しましょう。パウロは、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」と勧めています(5:20)。

 もう一つは、みこころを伺うことです。「主のみこころが何であるかを悟りなさい」とあります(5:17)。「主よ、これでいいのでしょうか」とか、「どうしたらいいのでしょうか。みこころを教えてください」と祈りましょう。ギデオンもダビデも、御心を伺うことをしなかったために、苦境に追い込まれました。

 最後に、光の子どもとして、「御霊に満たされ」ることです(5:18)。この勧めは現在形で表されています。絶えず御霊に満たしていただけるように、心を開いた状態を保つことです。

 光の子どもとして、感謝をしながら、御心を伺い、御霊の満たしをいただいて、幸いな日々を送りましょう。再び闇に飲まれないように、しっかり信仰をもって進みましょう。主イエス・キリストの十字架と復活の恵みに人生を委ねて、平安の中を歩みましょう。感謝な生活です。

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