礼拝メモ 7月17日
聖書 ヨハネの福音書10章7節-18節
イエス様のたとえの中でも有名なものの一つが、今朝の箇所です。イエス様が「わたしは○○です」と言われた言葉が、この福音書には何回か出て来ます。その背景は、出エジプト記の3章にあります。そこでは、モーセに神様がご自身の名前として「わたしはある」と示されたことが記されています。この名前は、どんなものにもなれる神様の融通性が含まれています。そして、ここ、ヨハネの福音書10章では、「わたしは門です」と「わたしは良い牧者です」が現れます。
羊を飼うための囲いには、一つの門があります。そこで、羊飼いは羊を一頭ずつ通らせて、健康チェックをします。イエス様が門として私たちの救いになるとは、どのようなことでしょうか。それは、イエス様の十字架の死を私のためと受け止めて、イエス様を救い主と信じることにより、永遠のいのちをいただけるということです。
詩篇の23篇は、ダビデが、神様を「私の羊飼い」として歌っています。ダビデの羊飼いはイエス様なのです。この詩篇は、多くの人に愛されてきました。証し集にあった柳井兄のお母様も、この詩篇に慰めを与えられたのでした。イエス様がともにいてくださる恵みを知ったのです。
さて、旧約聖書には、もう一つ、羊飼いのことが書かれている箇所があります。エゼキエル書34章です。そこには、「イスラエルの牧者」と書かれています。すなわち、支配者たちのことです。そして、神は、彼らが人民をないがしろにし、搾取し、自分の腹を肥やしていることを責めています。神はご自身で人々を養うと宣言しています。さらに、「彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る」と救い主の預言が記されています(23、24節)。この救い主こそ、イエス・キリスト様です。良からぬイスラエルの牧者でなく、「良い牧者」としてご自身を言い表しています。
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10章11節)。これがイエス様の言葉です。十字架で死なれることを表しています。しかも、「だれも、わたしからいのちを取りません」と言われます。イエス様の死は、不本意な死ではありません。不運の死でもありません。敵の力による死でもありません。それは、ご自身の意志で死なれるのです。羊である私たちへの愛のゆえに。
私たちは、羊です。飼い主のもとから迷い出た羊です。神を知らない私たちを、ご自身との交わりに回復させるために、主イエス様は、十字架に死んで下さいました。このことを、私のためだったと、受け止められ信じる時、私たちは、神様のもとに帰るのです。そして、永遠の「いのち」をいただけるのです。
その範囲は、「この囲いに属さないほかの羊たち」にまで及びます。「この囲い」とはユダヤ教の範囲ですから、その他の世界中の人たちをご自身の恵みの囲いに入れたいと願っています。ですから、私たち日本人もこの恵みにあずかれるのです。良い牧者であるイエス・キリスト様が、私たちの救い主となってくださり、永遠の神様との交わりに入れていただけるのです。何と幸いなことでしょうか。
羊である私たちは、羊飼いイエス・キリスト様のみ声を聞きながら、ついて行くのです。そうです。イエス様の声を、言葉を聞いて、従ってゆくのです。聖書に親しむことの大切さが分かります。私たちは、自称救い主の声でなく、まことの良い牧者の声に従います。