聖日礼拝メモ 2月9日

聖書 詩篇66篇1節―20節

 今朝は、詩篇66篇を読んでいただきました。この詩篇は、前半は「私たち」の語りですが、後半は「私」と個人的な歌となっています。

 まず、1節の出だしが特徴的です。「全地よ、神に向かって喜び叫べ」と招きます。イスラエル人にではなく、「全地」です。あらゆるところに暮らしている人々に、「喜び叫べ」と招いているのです。

 2節では、神の栄光に焦点を合わせて、ほめ歌えと迫ります。

 3節、4節は、信仰の告白です。恐ろしいみわざのゆえに、礼拝がなされます。「全地はあなたを伏し拝みます。あなたをほめ歌い あなたの御名をほめ歌います」と、全地が主を礼拝します。神はそういう方なのです。イザヤ書の40章、詩篇139篇で語られた大いなる神なのです。

 5節から、少し別の角度から、神のみわざを語ります。それは、出エジプトの出来事です。「神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った」と、紅海を二つに分けてくださったこと、ヨルダン川を堰き止めてくださったことを歌います。その無限の力をもって、神様は統べ治めているのです。ですから、「さあ、私たちは神にあって喜ぼう」となるのです。

 8節では、また「国々の民よ」と呼びかけて、賛美へと導きます。そして、「私たち」は、その神の力に支えられていのちを保ち、「私たちの足」は揺るがないのです(9節)。

 そのような私たちに、神は試練を与えます。10節から12節は、そのことを歌っています。「銀を精錬するように、私たちを練られました」とあります。精錬する時は火を使い、不純物を取り除きます。ここでは、網(英訳では牢屋)、重荷(奴隷)、頭をまたがせるような苦しみ、「火の中、水の中」と言われる苦難を通して、錬られるのです。

 そのように、試練を通る時、私たちは苦しいのですが、その後に「豊かな所」が備えられています。これは、溢れる恵みを表しています。詩篇23篇5節の「私の杯は あふれています」と同じ意味になります。ですから、「足は揺るがされない」のです。

 13節から15節には、感謝の献げものをする姿が描かれています。「全焼のいけにえ」とは、ほかのいけにえでは食べ物として帰って来るのですが、何も帰って来ないで焼き尽くされるいけにえです。これは、全的な献身を象徴しています。

16節では、「さあ、聞け」とあり、5節の「さあ、…見よ」と対応しています。ここからは、証しのことばです。主を呼び求めた結果、神をあがめることになったと、告白しています(17節)。そして、神に聞かれる祈りの秘訣を語っています。

 「もしも不義を 私が心のうちに見出すなら 主は聞き入れてくださらない」と、罪の問題が指摘されています。罪とは、なんでしょうか。イエス様はこう言われました。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)。神の救いであり、愛であるイエス様を信じないこと、独り子を与えてくださったほどに神に愛されていることを信じないことが、罪なのです。「だらしのない私たちのために、主イエス・キリストが救いの道を明確に切り開いてくださって、『自分の人生はこんなはずではなかった』と、もう言わなくてすむようにしていてくださることを信じないということ」が罪なのです。「みこころに従って願うなら、神は聞いてくださる」のです(Ⅰヨハネ5:14)。祈りを聞かれる神をほめたたえます。

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