聖日礼拝メモ 4月20日
聖書 コリント品への手紙第一 15章50―58節
主イエスは、十字架につけられてご自分の使命を果たし終えるまで、父なる神様の助けをいただいていました。あの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と問いかけた時でさえ、イエス様は支えられたのです。息を引き取ってから、よみにくだられた時が、イエス様の最も低きに下られた時でしょう。
その前後には、上昇のきざしが見えていました。十字架上で「完了した」と言われたとき、神殿の中で大きな音がして隔ての幕が上から真っ二つに裂けたのです。この幕は、神と人を隔てる幕です。それが、神の手によって引き裂かれたのです。神がインマヌエル、神がともにおられることができるようになったのです。
十字架の上で息を引き取られたイエス様のお体は、アリマタヤのヨセフがピラトに申し出て、墓に納めました。隠されていた彼の信仰が俄然、燃え上がったのです。彼は、使い古した墓ではなく、自分のための新しい墓にイエス様を納めました。そのお体は、「きれいな亜麻布」で包まれました。まるで貴重品を包むように、イエス様のお体は大切に扱われました。名声高い、ユダヤ人の中でも最上層の人であるヨセフが用いられたのでした。
墓の入り口に置かれた石の戸は、二三人の人でないと動かせないものだったでしょう。香油を塗りに行った女性たちは、この石の戸をどうしたらよいかと、思案していました。ところが地震が起こって、石がころがされたのです。これは、イエス様が出入りするためではなく、弟子たちが墓の中を観察できるためです。
パウロのコリント人への手紙第一の15章は、福音の中核に何があるかを語っています。それは、十字架と復活です(1-11節)。その後で、復活に疑問を持つ人のために、その重要性、その順序、そして復活のからだについて語り続けます。
復活のからだの説明として、穀物の種、各種の肉、様々な輝きなどを上げます。そして、肉体と復活のからだの相違を説明し始めます。
天上のからだと地上のからだ、朽ちないものと朽ちるもの、栄光あるものと卑しいもの、力あるものと弱いもの、――御霊に属するからだと血肉のからだ、天に属する者と土で造られた者などを並べて相違を説明します。
最後に、奥義が語られます(50節から)。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。そして、…この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみ言葉が実現します。『死は勝利に呑まれた。』」
復活は「死」を死なせるのです。これまで、死は何億という人を呑み込んできましたが、イエス様を飲み込めなかったのです。リュティは、こんな言葉を残しています。「死は、他のすべてのいのちを、いわば『消化』できるが、キリストが死に渡したこのいのちだけは、胃に収めておくことができなかった。それは死にとってあまりの腹痛を引き起こしたので、死はそれを再び吐き出さないわけにはいかなかった」と。死はイエス様のいのちに打ち負かされたのです。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(57節)。
主イエス様の復活は、イエス様の真実を明らかにしました。一つは、ご自身が語られたことが実現したことにより、イエス様のことばの真実が証しされたのです。今一つは、イエス様が神の御子であることが証しされたのです。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」(ローマ1:4)であると示されたのです。
また、イエス様の復活は、私たちについても真理を示しています。一つは、私たち信じる者も復活のからだをいただけるということです。パウロは、ピリピ人への手紙で、語っています。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ3:21)。すばらしい約束です。
そして、今一つのことにも注目したいのです。それは、イエス様をよみがえらせた神の御力は、主イエスを信じる人の心に働いて、救いを与えてくださると言うことです。「神の大能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」くださったとあります(エペソ1:19-20)。イエス様を救い主と信じるとき、神の大能の力によって、新しいいのちが与えられ、神の子とされるのです。
最後に、復活の証しについて考えてみましょう。
よみがえられたイエス様に最初に会ったのは、マグダラのマリアでした。彼女はイエス様にお会いすると、弟子たちに「私はイエス様にお会いしました」と証ししましたあ。弟子たちは信じたでしょうか。ペテロとヨハネは墓まで走って行きました。しかし、イエス様に会えませんでした。
弟子たちが鍵をかけた部屋に集まっていたとき、イエス様が現れ、弟子たちと交わりました。そこにトマスはいませんでした。一週間後、トマスのいる部屋に、イエス様は現れて、トマスに語りかけました。彼は、「私の主、私の神よ」と信仰の叫びを上げました。イエス様は、「見ないで信じる者は幸いです」と語られました。
サウロは、教会を迫害しました。のろいの十字架につけられたナザレのイエスが救い主であるはずがないと考えていました。ダマスコの弟子たちに手を伸ばして近づいたとき、主イエスが声をかけました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との問いに、サウロは「あなたはどなたですか」と答えます。イエス様が「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と言われたとき、サウロはことばを失いました。そして、ダマスコで「イエスは神の子だ」と語り始めたのです。
マグダラのマリアの証し、10人の弟子たちの証し、クリスチャンたちの証しに対して、私たちはしっかり答えましょう。イエス様はよみがえられたのです。イエス様の復活を信じて、立ち上がりましょう。イエス様が十字架の上で成し遂げたことは、イエス様の復活にょって保証されています。イエス様を信じるとき、イエス様をよみがえらせた神の力が私たちを救い、聖めてくださるのです。この恵みを信じて生きていきましょう。