聖日礼拝メモ 5月4日
聖書 ヘブル人への手紙12章1―12節
世の終わりには困難な時代がやって来ると、聖書は教えています。私たちは安易な道を求めやすいので、困難に出会うと避けたくなります。しかし、それでは成長しません。それでは、どうしたらよいのでしょうか。一つのヒントは、主からの訓練として困難に対峙することです。
このヘブル人への手紙の12章は、忍耐について語ってから、その理由を述べています。1節に「忍耐をもって走り続けよう」と励まし、2節で「辱めをものともせず、十字架を忍」ばれた主イエスに目を向けさせ、3節でも「耐え忍ばれた方」として主イエスを指し示しています。
4節には罪との戦いがあることを示し、5節以下で、そのための励ましが記されています。そこには十回近く「訓練」という言葉が出て来ます。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない」から始まって何回もです。5節の後半に「主に叱られて気落ちしてはならない」とあります。昔、日曜日に礼拝に行かずにドライブに行って、事故を起こした青年がいました。この人は、事故をイエス様のお叱りと受け止めて、その後は礼拝出席に励み、今は伝道者になっています。あなたは、イエス様に叱られたことはありませんか。
6節以下は、5節の訓練の説明です。
訓練は、「そのときは喜ばしいものではない」と記されています。スポーツの世界でも練習はきついけど、勝利のためにと頑張ります。信仰の世界で訓練を受けるときも、やはり辛いのです。それは、人間が安易なものを求めやすいからです。ですから、訓練は成長につながるのです。肉体の成長でも時に痛みが走ります。霊の成長も痛みが伴うことがあるのです。それを受け止めて、イエス様とともに戦うとき、訓練は良い実を結びます。成長するのです。
ゲッセマネで、イエス様が祈られたのも、同じ面を持っています。この書の5章には、「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」とあります(5:9)。イエス様でさえ、苦しみを通り、従順を学んだのです。そこに成長があったのです。御心に従うことが辛かったり、苦しかったりするとき、これを訓練として受け止めて、身を当てはめて行くなら、成長するのです。
ここに石川正一さんの証しをお話しします。この人は、五歳の時に筋ジストロフィーという病気であることが分かった人です。両親はクリスチャンでしたが、だんだんとからだが動かなくなる自分の苦しみを綴った「たとえぼくに明日はなくとも」という文集が出版されました。九歳の時のことばに、「ぼくなんか、どうして生まれてきたんだ。生まれて来なければよかったんだ」と嘆いた正一くんでした。十四歳の時、父親からこの病気は治療法がないこと、二十歳までの命であることを知らされます。しかし、父親から、「人間は、いつまで生きられるかではなくて、どんなふうに生きたかが問題なんだよ」と教えられます。そして「キリストにあって完全燃焼を目ざす」と心に決めたのです。
こんなことも言っていました。「悔いなく生きた者には、神さまは、安らかな最後の時間を与えてくださると思っていたのに、このままでは、終わりまでこの苦しみは続きそうだね。…しかし、ほくにはやっぱり分かっているんだ。最後まで苦しみと闘い続け、生きる努力をし続ける姿を、自分とかかわる多くの人たちに、いつまでも覚えていてもらい、心の中に生き続けるためなんだってね…。」
二十三歳で召される二日前に、こんな詩を残しました。
草原にそよぐ青草のように
わたしの心はさわやかだ
何もさえぎるものがない
これこそが信仰のきわみだ
地上の終着駅が見える
篭の扉が開き
鳩が羽ばたくように
自由になれる
これこそが
臨終を迎える姿なのだ
この人は、苦しみを通して成長しました。主は豊かにお報いになられるでしょう。
ヘブル人への手紙12章10節には、訓練の目的が記されています。「霊の父が、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」訓練がなされるのです。御父の聖さにあずかるとは、天の御国に入ること、と理解する人もあります。また、聖なる存在である神に所有されるときのこと、と説明する人もあります。
苦しみを訓練と受け止めて、主イエス様に信頼して生きていくーー信仰の完成者であるイエス様から目を離さないでいく、そこにすばらしい成長が約束されているのです。主イエス様と似た者になって行くのです。