聖日礼拝メモ 4月13日

聖書 マルコの福音書14章32―42節

 今日は、今年の棕櫚の聖日になります。受難週に入るわけです。この一週間はとても濃い一週間です。その中から、今朝はゲッセマネのイエス様の姿を見つめます。

 ゲッセマネの園に行く前に、最後の晩餐の席で、イエス様はご自分を裏切る者がいることを示しました。その後、イエス様は弟子たちがつまずくことを予告しました。そして、ペテロがそれに反応して、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と大言を吐きます。しかし、イエス様は、「今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予告します。

 それからゲッセマネの園に行ったのです。使徒たちに「ここに座っていなさい」と言って、パテロとヤコブ、ヨハネを連れて奥に進みます。そこで、イエス様はこう言われます。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい」と。それは悩みともだえの始まりだったのでしょう。

 ソクラテスは毒の入った杯を従容として呑んで死んだと言われます。でも、主イエス様は苦しみ、悩み、悲しまれたのです。

 イエス様の死は、一人の死ではありません。私たち皆の罪を担う死です。そのために、父なる神様から見捨てられ、のろいの罰を受ける死です。親しく交わり、いのちと愛を注がれてきた父なる神様との関係が断ち切られるのです。それが、悲しみの理由でしょう。

 えん罪事件がたびたび報じられます。犯しもしなかった罪の罰を受けさせられる苦しみは、大変なものです。イエス様は、聖い心で私たちの罪を身に受けられたのです。それは、私たちには分からない苦しみだったことでしょう。

 イエス様はその時、十字架の苦しみに加えて、悪の勢力が迫っていたことも、その苦しみの理由です。弟子たちは、屈強の漁師たちです。徹夜で漁をすることもできた人たちです。しかし、イエス様が見ると、彼らは眠っていました。ある人は言っています。「眠らせ、眠り込ませるということは、今日に至るまで、暗黒の特別の武器の一つであり、優れた戦闘手段の一つである」と。イエス様は弟子たちに、祈りの援軍を期待したのですが、彼らは完全に失敗しました。散らされるとか、つまずくといわれていたのですから、悪の勢力に負けないように目を覚ましていなければならなかったのですが、眠ってしまったのです。これでは、イエス様一人の戦いになってしまいます。

 イエス様は、「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります」と祈りました。篤い信頼がうかがえます。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られました。十字架の上で罪を担い、呪われて死ぬという杯です。イエス様は三度も祈られました。しかし、三度とも天からの応答はありませんでした。この沈黙の中に、父なる神様のみこころを知ったイエス様は、十字架に進む決意ができたのです。それは、父なる神様が責任を持って助けてくださることを信じたのです。そのことを、ヘブル人への手紙の著者は、こう表現しています。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と(ヘブル5:7)。私たちは、ただ、感謝し、お従いするのみです。

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