礼拝メモ 9月26日
聖書 マタイの福音書24章36節-51節
先週、毒麦のたとえ話を学びましたとき、主イエスの再臨の時について語られていたことを思い出してください。今朝は、その再臨の時のことを考えてみましょう。聖書は、マタイの福音書24章です。この章は、世の終わりにイエス様がやって来る、つまり再びやって来る再臨のことを語っています。そして、続きの25章は、再臨にまつわるたとえ話が三つ並んでいます。そこに行く前の24章の後半を取り上げます。
「ただし、その日、その時がいつなのかはだれも知りません」(36節)。その日とは、イエス様が再臨なさる日です。この節の前には、いくつかのしるしが(前兆が)あると語られています。自然界、宗教界、そして人間の心にも、しるしとなるものが現れると言います。そして、苦難の時代がやって来ると、イエス様は言われます。しかし、「その日、その時」はいつなのかは分からないと言われます。
時々、「何年何月にキリストが来られる」とか、「私がキリストだ」という人が現れます。でもだまされてはいけません。「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです」(27節)。突然、稲光が光るように、イエス様のおいでは突然であるとともに、どこからも見えるような形で来られるのです。
37節からは、ノアの時代の大洪水のことを引いて、語りかけます。箱舟を作っていたノアの家族を見て、人々は大洪水があると知っていました。でも、彼らは信じませんでした。そんなことにお構いなく、「食べたり飲んだり」していたのです。そして突然、大洪水に飲まれたのです。
40節、41節には、男の人と女の人の話が出て来ます。戸外の畑と、屋内の臼をひくことが言われています。どちらも、取られる人と残される人のことを語っています。取られる人は、再臨のときに引き上げられる人であり、残される人は、苦難の中に残される人です。
42節は、「目を覚ましていなさい」と警告のことばです。44節には、「あなたがたも用心していなさい」とあります。この二つは、再臨を信じる人たちの姿を言っています。45節からは、その姿をしもべのたとえを用いて、語っています。
目を覚ましているとは、どういうことでしょうか。それは、イエス様の再臨を待ち望む心で生きることです。自分に与えられた仕事、使命に忠実に生きることです。
奉仕すること、人に仕えること、人の役に立つ働きをすること、他の人の必要のために尽くすこと—いろいろ言い換えられます。自分のことばかりに心を用い、他の人のために何もしない、あるいは遊び暮らす、それは、目を覚ましていない、眠り込んだ心の人です。
ノアの日のことが語られていましたが、大洪水がやって来ると聞かされても、周りの人たちは信じませんでした。ノアは、神様からのことばとして真剣に受け止め、箱舟を作る大変な働きに手をつけたのです。
イエス様は「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることはありません」と仰っています(35節)。そのイエス様が、もう一度来られると語っているのです。私たちは、その日を信じて期待して生きるのです。イエス様が十字架についてまで救いの道を開いてくださった愛を、決して忘れずに生きるのです。そして、イエス様のように、人を愛し、人に仕える人生を送るのです。それが、目を覚まして、用心して生き方です。イエス様の恵みが支えです。