礼拝メモ 4月4日

聖書 ルカの福音書24章28節-35節

 イースターはイエス様の復活を記念する時です。しかし、この復活を信じられない人たちがいます。この福音書にも、信じられなかった人たちが記されています。彼らの経験に学ぶことはできないでしょうか。

 使徒パウロも、イエス様の復活を信じないで、クリスチャンを迫害していました。しかし、ダマスコに向かう道で、復活したイエス様の声を聞き、劇的な回心をしたのでした。それで、アグリッパ王の前で弁明する時も、「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたはなぜ信じがたいこととお考えになるのですか」と言って、自分の経験を語っています(使徒26章)。それで、このルカの福音書24章にある、復活にまつわる物語を調べてみましょう。

 まず、1節〜12節にある女性たちの場合です。この人たちは、復活のことを期待もしなければ、信じてもいない状態で、イエス様が葬られた墓にやって来ました。イエス様のおからだに香料をぬってさしあげたいとやって来ました。墓の入り口をふさぐ石の戸をどうしたらよいのか、迷っていました。しかし、来てみると、すでに石は転がされ、墓の中に入れるのです。入ってみると、そこにはイエス様のお体はありませんでした。そして、御使いが「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい」といいました。女性たちは思い出しました。でも、イエス様はどこにおられるのでしょうか。そんな疑問をいだく彼女たちに、イエス様は現れてくださったと、マタイは告げています(マタイ28:9−10)。これで女性たちは、イエス様の復活を実体験したのです。

 次は、シモン・ペテロです。女性たちの報告を受けて、墓に行ってみましたが、やはりイエス様のお体はありませんでした。不思議に思いつつも、まだ復活を信じていません。しかし、その後、イエス様がご自身を現してくださったのです。「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」(24:34)。ペテロにとって、復活はもう疑問の余地のないことになりました。

 最後に、エマオに向かう二人です。彼らは、イエス様の十字架の死にショックを受けていたようです。二人の会話は、もっぱらイエス様のことでした。そこにイエス様ご自身が近づくのです。でも二人にはイエス様だと分かりません。道々話し合いながら、宿に着きます。三人で囲んだ夕食のとき、イエス様がパンを裂く仕草に、二人はハッと気がつきます。イエス様だ。そして、イエス様は見えなくなります。でも、二人にとっては、イエス様が生きておられることが分かったのです。彼らの感想の言葉が、記されています。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか」と(32節)。

 これらの人たちは、最初、イエス様の復活を信じていませんでした。でも、イエス様にお会いして、疑いは晴れました。彼らは「目が開かれ」(31節)、聖書が開かれ(32節欄外注)、「心」も開かれました(45節)。私たちは、目に見えないイエス様がよみがえって生きておられることを、どのようにして分かるのでしょうか。まず、これらの聖書の記事から、イエス様が復活されたことを知らなければなりません。その上で、聖書の言葉を心に語られる経験を通して、また祈りに答えてくださる経験を通して、心を熱くされることが大切なのです。心にイエス様をお迎えしようではありませんか。

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