礼拝メモ 11月8日
聖書 ヨハネの福音書19章23節-30節
イエス様がつけられていた十字架の下には、四人の女性がいました。イエス様の衣を四人の兵士が分け合っていたことと対比されています。この福音書では、イエス様の母マリアは、名前を出さずに登場します。ここもそうです。その姉妹とは、サロメで、ゼベダイの妻であり、ヤコブとヨハネの母です。クロパの妻マリアはヤコブとヨセフの母です(マタイ27:56、マルコ15:40)。マグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらってイエス様について行った人で、復活のイエス様に最初にお会いした女性です。
男性の弟子は「愛する弟子」ヨハネがそばに立っていました。するとイエス様は言いました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と。そしてすぐ「ご覧なさい。あなたの母です」と。これは、母マリアと愛する弟子ヨハネを結び付ける言葉です。
このような語りかけは、その後の「完了した」という言葉を語るために必要なことだったのでしょう。カナの婚礼の時は、イエス様はまだ自分の「時が来ていません」と言って、母マリアに断りの言葉を告げましたが、なくなったぶどう酒に代わる良いぶどう酒を提供しました。そして、今十字架の上で、成し遂げるべきことの一つとして、イエス様はマリアとヨハネを一つの家族に組み入れたのです。
イエス様の伝道生涯の中では、まるで家族を分離するかのように厳しい言葉を語っていました(マタイ10:35、37など)。しかし、今は優しい、一つの群れ、一つの家族にまとめようとする言葉が語られたのです。イエス様は、こう言われました。「わたしにはまだ、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです」(ヨハネ10:16)。
この家族に入るなら、「百倍」の母、子どもを受けると言われたことがあります(マルコ10:29-30)。この表現は何倍もの祝福を受けることを言ったものですが、マリアとヨハネにとっても、新しい意味を持って受け止められたことでしょう。
この新しい家族には、家訓に等しいものがあります。それは、イエス様が愛したように「互いに愛し合う」ことです(ヨハネ13:34)。それは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く」愛です(ローマ12:15)。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリント12:24)。助け合い、祈り会う家族です。
イエス様が十字架につけられるときにはぎ取られた衣の中に、「一つに織った、縫い目のないもの」がありました。これは大祭司の着物と同じです。「イエス様は永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる」のです。(ヘブル7:24-25)。そして、イエス様は、地上の家族のためにとりなしに加わることを求めるのです。だれかの心に、「あの人のために祈って」と声をかけられるのです。イエス様の心に合わせてとりなしの祈りができる人はなんと幸いでしょう。小さな私たちが、イエス様の心をいただき、お祈りできるとは、なんという特権でしょう。イエス様、私にも声をかけてください。