礼拝メモ 8月16日
聖書 ローマ人への手紙1章1節-7節
使徒信条の第二項は「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」とあります。そして、イエス様の生涯の項目が続きます。この「我らの主イエス・キリスト」はひとまとめになっています。今朝は、この言葉に注目してみましょう。
「主イエス」とか「イエス・キリスト」という言葉はよく使われています。この「我らの主イエス・キリスト」という言葉は40数回しかありません。このローマ人への手紙に一番多く現れます。
この1章4節に最初に現れます。そこでは、復活によって神の御子である方を知り、この方こそ、「私たちの主イエス・キリスト」であると認めたのです。十字架上で死なれ、三日目によみがえられたナザレのイエスこそ、「私たちの主イエス・キリスト」であると認めたのです。
5章1節には、また別の意味が語られています。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ここには、私たちの主イエス・キリストによって神との平和をいただけたことを喜んでいます。神との平和とは、神を知らず、神のみこころをないがしろにしてきた罪を赦され、和解が出来たのです。神と仲直りをすることができたのです。それは、深い平安をもたらしたのです。
5章21節では、「永遠のいのち」に導くために救われたと言われています。永遠のいのちとは、時間的な永遠よりも質的な永遠を意味しています。つまり、神のいのちをいただくのです。神様と心を交わし、お祈りができるいのちです。
6章23節では、その「永遠のいのち」は「神の賜物」であると語っています。そして7章25節では、「私たちの主を通して、神に感謝します」とあります。それは、次の8章1節にある事実が感謝をもたらしたのです。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません!」です。何という喜びでしょうか。感謝の他ありません。
最後に8章39節を見てください。「高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ここで、私たちの主イエス・キリストが救ってくださったことは、神の愛を確信させてくれる出来事なのです。
さて、信じるとは、どういうことでしょうか。まず、知ることから始まります。知らなければ信じられません。聖書を通して神を知ることができます。主イエスを知ることができます。
次の段階は、知った事実を受け入れること、承認することです。承認することに妨げになるのは、常識です。毎日の習慣です。それを押しのけて承認し、自分のうちにその真理を受け入れるのです。そうすると、私たちの内側に変化が生まれます。天からのいのちが始動し始めます。作り変えられるのです。そこに平安が伴います。
最後は、信頼することです。人生を任せること、悩みを委ねることです。そのとき、神様との交わりが生き生きとなります。心が温かくなります。
聖書を土台にして、私たちは生きている主イエス様との交わりに加われるのです。知り、承認し、信頼するとき、「信じます」と告白できるのです。
聖書 ローマ人への手紙1章1節-7節
タイトル 「我らの主イエス・キリスト」
使徒信条の第二項は「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」とあります。そして、イエス様の生涯の項目が続きます。この「我らの主イエス・キリスト」はひとまとめになっています。今朝は、この言葉に注目してみましょう。
「主イエス」とか「イエス・キリスト」という言葉はよく使われています。この「我らの主イエス・キリスト」という言葉は40数回しかありません。このローマ人への手紙に一番多く現れます。
この1章4節に最初に現れます。そこでは、復活によって神の御子である方を知り、この方こそ、「私たちの主イエス・キリスト」であると認めたのです。十字架上で死なれ、三日目によみがえられたナザレのイエスこそ、「私たちの主イエス・キリスト」であると認めたのです。
5章1節には、また別の意味が語られています。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ここには、私たちの主イエス・キリストによって神との平和をいただけたことを喜んでいます。神との平和とは、神を知らず、神のみこころをないがしろにしてきた罪を赦され、和解が出来たのです。神と仲直りをすることができたのです。それは、深い平安をもたらしたのです。
5章21節では、「永遠のいのち」に導くために救われたと言われています。永遠のいのちとは、時間的な永遠よりも質的な永遠を意味しています。つまり、神のいのちをいただくのです。神様と心を交わし、お祈りができるいのちです。
6章23節では、その「永遠のいのち」は「神の賜物」であると語っています。そして7章25節では、「私たちの主を通して、神に感謝します」とあります。それは、次の8章1節にある事実が感謝をもたらしたのです。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません!」です。何という喜びでしょうか。感謝の他ありません。
最後に8章39節を見てください。「高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ここで、私たちの主イエス・キリストが救ってくださったことは、神の愛を確信させてくれる出来事なのです。
さて、信じるとは、どういうことでしょうか。まず、知ることから始まります。知らなければ信じられません。聖書を通して神を知ることができます。主イエスを知ることができます。
次の段階は、知った事実を受け入れること、承認することです。承認することに妨げになるのは、常識です。毎日の習慣です。それを押しのけて承認し、自分のうちにその真理を受け入れるのです。そうすると、私たちの内側に変化が生まれます。天からのいのちが始動し始めます。作り変えられるのです。そこに平安が伴います。
最後は、信頼することです。人生を任せること、悩みを委ねることです。そのとき、神様との交わりが生き生きとなります。心が温かくなります。
聖書を土台にして、私たちは生きている主イエス様との交わりに加われるのです。知り、承認し、信頼するとき、「信じます」と告白できるのです。